私の大好物、お義母さんのブリ大根
人生で忘れられない料理はいくつもありますが、大嫌いだった料理が一瞬で好物に変わってしまったのは、この時だけです。
運命のブリ大根・・・これを食べたのは夫の実家でした。
それは結婚して初めての冬。義実家で夕食をごちそうになった時のことです。
義母はかなりの料理上手なので食事はいつも楽しみでしたが、この時ばかりはちょっと困ってしまいました。
なぜなら食卓に、私の苦手なブリ大根が並んだからです。
でも嫁となって日が浅いのに、義実家で食事を拒否る度胸を私は持ち合わせていませんでした。
またこの日は東京で暮らす義妹も帰省し、久しぶりに家族が全員そろった時でもあったのです。
皆の笑顔に水を差すわけにいかない。ならば食するしかない!
噛まずに乗り切ろうと覚悟を固めて、箸をつけた私ですが・・・
一口食べた瞬間に、気持ちが180度ひっくり返ってしまいました。
これまでのぶり大根と違い、魚特有の臭みがほんの少しもありません。
ブリの旨みだけがとろっとろに煮込まれた大根に、しーっかり染みていました。
口の中ではブリと大根の両方から、煮汁がじゅわんとあふれ出ます。
そこに炊き立ての白米が加われば、もうこの世の春!といった感じ。
おいしくて、おいしくて・・・ハイスピードで食べる私を見て、義父は自慢げに「うちのブリ大根は日本一だからな」と笑っていました。
しかし義母は「私じゃなくてアレの力だわ」と言って、壁際をスッと指差しました。
それは昔ながらの石油ストーブでした。
その上には鍋が乗っていて、中をのぞけばブリ大根がくつくつ煮えています。
石油ストーブ+料理と組み合わせが意外で、気づきませんでした。
最初はひどく驚きましたが、よく考えたらその原理は薪ストーブ料理と同じ。
赤外線効果で熱がムラなく伝わるから、味の染み込みが倍増するのです。
加熱がじっくり進み、高温になりすぎないもの良い効果となる・・・おいしく煮込めるのも納得です。
それから私は冬になると、たびたび義母のストーブ料理をごちそうになりました。おでんに豚汁、きぬかつぎ(じっくり煮てつるりと皮をむいたものを、生姜醤油でいただく。絶品)・・・
味のしみ具合が半端なく、ほどよい温度のストーブ料理に私は夢中になりました。
夫曰く、昔は冬になると毎日何かが石油ストーブの上で煮込まれていて、鍋をのぞくのが楽しみだったそうです。
彼のイチオシは土手煮で、数日食べ続けてもまったく飽きなかったと言います。
コクと甘味が日毎に深まり、たまらなかったと喉をならしていました。
「実家の土手煮は日本一だと思う」と、義父と似たようなことを言ったのには笑ってしまったけれど。
あまりに義母のブリ大根がおいしかったので、私も時おり作るようになりました。
私の場合は普通にガスコンロで煮込みます。まあ美味しいと思いますが、義母の味にはとても及びません。
そして作っているとなぜか、義母とストーブ料理のことを思い出すのです。
義母は独立心が強く、自分にも子供達にも厳しい女性です。
夫は「甘えた記憶がほとんど無い」と言っていました。
けれど義母の愛情は料理にしっかり溶け込んでいると私は思っています。
それほどに義母の料理は、暖かくて優しい味がするのです。
夫の実家は共働き。
義母はフルタイム勤務でありながら家事と育児をほとんど一人でこなしてきました。
今よりも家電サポートのない時代です。厳しくならねばやっていけなかったでしょう。うちの実家も共働きでしたから、その大変さはよくわかります。
あのストーブ料理は、忙しい中でも子ども達においしく栄養をとってもらうために、義母が編み出した料理術なのでした。
さきほど、赤外線効果でストーブ料理は美味しくなると書きましたが、本当の秘訣は一緒に煮込まれた愛情だと思っています。
それにブリ大根も土手煮も、下拵えにけっこう手間がかかります。作ってみるとわかる、あの面倒さ・・手抜きなんてとんでもありません。
暖かいストーブの上にある鍋の蓋を、そっと開ける夫の姿が目に浮かびます。
その香りが、どれだけ冬の日の彼を温めてくれたことでしょう。
温度や香り、そして味を通して愛情が彼の中にしっかり入っていた。そのようにして彼の心や体は作られたのだと思います。
これは夫と何十年も暮らした私の、ささやかな確信です。
けれどそんな冬の風景も、8年前に義父が亡くなってからは見かけなくなりました。
義母が料理を卒業したからです。
「もう一生分やったから、やめるわ〜」とのことでした。
それも当然だろうと思います。義母の料理の腕を思うと惜しくもあるのですが。
こうして義実家の石油ストーブは、ただの暖房器具となりました。
それでも冬に義実家へ行くたび、私はストーブの上にお鍋の幻影を見ずにはいられません。夫に話したら同じことを思うと言っていました。
私のお鍋に入っているのはあのブリ大根ですが、夫は土手煮じゃないかな。
そして帰り道に毎回、今年こそ石油ストーブを買おうかと迷うのです。
結局いまだに買っていないのは、あれほどおいしいブリ大根を作る自信がないからかもしれません。
義母と同じようにストーブを使っても。
愛情を込めて煮込んだとしても。