上様、襲来 -マツケンサンバ-
前回の記事で「このエッセイの主軸を双極性障害に定めたい」と書いたにもかかわらず、今回私は大きく横道に逸れようとしている。読者の方には寛大な心でお許し願いたい。
こんなはずではなかった。本来なら、真面目に自分の障害について書くつもりだったのだ。しかしその予定をぶち壊す衝撃が、私の元を訪れたのである。
それは何か。ずばり、
マツケンサンバである。
大半の読者の方は、「何のこっちゃ」と首を傾げたことだろう。一部の方は、「ああ、あれね!」と得心がいったかもしれない。
順を追って話していこう。
現在、「悪役令嬢転生おじさん」というアニメが絶賛放送中である。原作は上山道郎先生による漫画だ。あらすじをざっくり紹介すると、
「52歳の実直な公務員、屯田林憲三郎(とんだばやし・けんざぶろう)は、ある日トラックに轢かれそうになっている少年を助けたところで意識を失う。目覚めるとそこは、どこかで見たことのある中世風の異世界。なんと憲三郎は、娘がプレイしていた乙女ゲームの『悪役令嬢』グレイス・オーヴェルヌに転生してしまっていたのだ!グレイス=憲三郎は、オタクとしての知識と公務員人生で培った機転をフル活用し、悪役令嬢らしい振る舞いを心がけようと奮闘するのだが……?
……といったところだろうか。私は原作漫画のファンなので、アニメ化も大変嬉しかった。しかし、悲しいかな体力のないへろへろ社会人は深夜の放映時間まで起きていられず、記念すべきアニメ第一話はリアタイ視聴することができなかった。録画はしていたので、アニメはしばしハードディスクに眠ることとなった。
数日後。その日、私は滅入っていた。活動性が上がり疲れを感じにくくなるフィーバータイムこと軽躁状態(これについては次回以降詳しく説明したい)から、一気に鬱状態へと下降していく気配をひしひしと感じていた。疲れているのに眠れない。テレビを見たい気がするのに何を観ていいかわからない。ぼんやりとテレビ内蔵ハードディスクの録画リストをスクロールしていたとき、前述のアニメのタイトルが目に飛び込んできた。
こんなときこそ、このアニメを観るべきなのではないか。なんだか元気になれそうな気がする。そう思ってぽちっと再生ボタンを押した。
アニメは作画も美しく、声優陣も豪華で、素晴らしい出来映えだった。多少やりすぎなくらいの派手な演出が、原作の良さを存分に再現している。これには原作ファンの私もにっこり。あー面白かった。気分も軽くなった。来週が楽しみだなあ。
そう思っていた、その時。エンディングが流れ始め、私は目を見開いた。
ーーイントロに聞き覚えしかない。この曲、まさか。いやー、まさかね。そんなはずは。だって許可とかいるだろうし。きっと私が間違って覚えているだけで、別の曲なのではーー
一瞬のうちにそんな思考が頭を駆け巡った。しかしその間も、私の脳裏には『あのお方』のご尊顔がちらついていた。
曲が始まった。
マツケンサンバだ!!!!
その曲は紛れもなくマツケンサンバだった。
その瞬間から、私の脳内は金色に染まった。
パリピグラサンをかけてグレイスと共に舞い踊る憲三郎も、しっかり見たいと思っていたスタッフロールも、私の目にはおぼろげにしか映っていなかった(これらはのちに巻き戻して確認した)。その時私の脳内に浮かんでいた情景は、以下のようなものだったーーーー
泰平の世であるはずの江戸の町を駆け巡る不穏なざわめき。飛び交う噂。何やら奇妙なものが、海の向こうからやってきているらしい。港に向かった町人のひとりが、沖合を指差して叫ぶ。
「あれは何だ!?」
指さす先には黒い蒸気船……ではなく、黄金の豪華客船。どこからともなく金の紙吹雪が風に乗ってやってくる。唖然とする人々の前で、豪華客船は悠々と港に停泊する。町人も武士も揃ってあんぐりと口を開けて見上げるその船の甲板には、黄金の着物を纏った高貴なるお方が華麗な舞を披露している。
困惑と興奮にさざめく群衆の中、誰かが熱に浮かされたように叫んだ。
「あれはーー上様だ!上様のお成りだ!」
そして港は、未だかつてない熱狂に包まれた。
以上、すべて妄想である。我ながら妄想力過多だとは思うが、マツケンサンバにはそれだけの妄想をさせるパワーがあるのだ(ところで、私は歴史に疎いので、黒船が本当に黒い蒸気船だったのかも、入港した港が具体的にどこだったのかもわからない)。
何の心構えもなしに耳に流れ込んできたマツケンサンバは、かくして私の脳を占拠した。そもそも、この曲は驚くべき中毒性を持っている。そのインパクトには、「台風襲来」とか、先程の妄想のような「黒船来航」くらいの表現がふさわしいのではと思う。
もはや何を不安に思っていたかも思い出せない。ひたすらマツケンサンバのサビ前から大サビにいたるまでが無限リピート状態である。くっきりとメイクを施した上様の微笑みときらめくミラーボールが頭の中をぐるぐると回る。私はうっすら混乱しながらもハッピーな気持ちのまま眠りについた。
翌朝になっても、鬱状態はやって来なかった。代わりにマツケンサンバが延々と流れ続けていた。恐るべし、マツケンサンバ。ありがたし、マツケンサンバ。
「悪役令嬢転生おじさん」原作者の上山道郎先生、アニメ制作スタッフの皆さま、エンディングを歌ってくださった声優の井上和彦さま、M・A・Oさま。そして、上様こと松平健さま。あなたがたのおかげで一人の双極性障害患者が鬱状態から救われました。本当にありがとうございました。
ちなみに翌日も頭の中でリピートが止まらず、多少仕事に支障をきたしたが、そんなことは些事である。マツケンサンバを讃えよ。