ヤンキーとセレブの日本史 Vol.12 南北朝・室町時代その2
有力なケツモチがいないと世の中は荒れます。
強いケツモチがいる時は、いちいちケンカをしなくともケツモチの名前を出せば相手も引き下がるので、無駄な抗争は抑えられましたが、ケツモチがいなければ単純に暴力の強さで白黒つけるしかありません。
グダグダ抗争が長引く
鎌倉時代後期からの暴力の分散化により、西日本を中心に地元のヤンキーたちが力をつけており、何より奈良に逃げた後醍醐天皇の「南朝」があったことで、尊氏と「北朝」は、日本全土を掌握しきれていませんでした。
後醍醐天皇が尊氏をぶっ殺せと命令を出すので、東北の北畠顕家や、ずっと抗争していた新田義貞など南朝派のヤンキーたちが次々とカチコミをしてくるので、尊氏もその対応に追われます。
ようやく一段落ついたところで、尊氏は北朝の天皇に任命され、1338年に征夷大将軍を襲名し、室町幕府を開くことになります。
その翌年、後醍醐天皇は病気で死にます。尊氏はずっと戦っていた後醍醐天皇のことを本当は尊敬しており、死んだ後に寺を建てました。
ここから先、しばらく抗争が続くのですが、ずっとグダグタしていて面白くないんです。
全国を巻き込んで大きな抗争を繰り広げるのですが、こんなに面白くない理由は、主人公の足利尊氏になんのビジョンもなく、行き当たりばったりだからなんです。
大きなストーリーでは「天下の大将軍」とか「海賊王」とか大きな目的がないと締まりません。
尊氏はいい人で、みんなに好かれていましたが、それだけだと舐めてくる奴らも出てきます。源頼朝のようにヤンキーの世を作るという目標もなく、アンチ北条・アンチ後醍醐天皇が多い世の中の流れと、頭のキレる弟のお陰でここまでやってこれましたが、この優柔不断さが揉め事を大きくしてきました。
龍が如くの桐生ちゃんと一緒なんです。桐生ちゃんは自分が組織の上に立ったらロクでもないことになると分かっているので、早々に組長を引退してカタギになりました(実際に桐生ちゃんがこいつならと見込んで跡目に指名した次の組長が本当は韓国マフィアの人間だったせいで組は壊滅的なダメージを受けるのですが)。
桐生ちゃんは天下国家や極道の未来なんて語らず、家族や仲間を守るためだけに一生懸命だからかっこいいのです。
かっこよさとは、大きなことをするだけではなく、大切なものを大切にすればどこにでも宿るのです。
尊氏も本当は何度も引退してカタギになろうとしたのですが、その度に弟に引き止められた不幸があります。
グダグダのあらすじ
この先のストーリーを一度書いてみたんですが、私の腕前ではどうやっても面白くできないので、端折って書きます。
要は仲良しだった弟と揉めて、お互いにゼッテーゆるさねーみたいな感じになったせいで、周りがどっちに味方につくかで割れて、国レベルで混乱が広がっていったという話です。
兄の尊氏と弟の直義は仲良く幕府をやってたが、尊氏が高師直というヤンキーも使うようになり、その師直と弟直義が合わずに揉める。
尊氏は最初は弟の方を取ろうとしたが、師直が暴力で脅してきたので、弟を守ろうとして、カタギにさせることを約束するが、弟がブチ切れる。
ブチ切れた弟は敵だった奈良の南朝に駆け込んで兄と北朝にカチコミをかける。地方のヤンキーたちはどっちに付くのかで割れる
劣勢になった尊氏は、弟と揉めていた高師直を追い出すことを条件に手打ちする(しかし、師直はその直後に恨みをもっているやつに殺される)
一旦また一緒に兄弟で幕府をやることにしたが、ギクシャクして、子分たちもどっちにつくかでもめる
直義は居づらくなって北陸に逃げ出すが、今度は尊氏が敵だった南朝と手を組んで直義にヤキいれをしにいく。その条件として北朝をなくして、一旦南北が統一される
直義は捕まって死ぬ(病死・毒殺の両方の説あり)。混乱してる隙に味方だったはずの南朝が京都の幕府にカチコミをかけてくる。
仲良かった兄弟で揉めて、ぜってーに許さねーが一番の行動原理になったせいで、なんの信念もなく、元々敵だった相手とも手を結び、裏切り混乱が広がっていきます。
足利尊氏という人間は、鎌倉幕府を倒すまではヤンキー漫画の主人公でしたが、好評だったからとスケールを大きくして描いた続編では主人公になりきれなかったような人です。
抗争が長引くことで子分の力が増していく
このグダグダが地方のヤンキーに力をつけさせ、戦国時代のフラグになるのです。
久方ぶりに出てくる話ですが、ヤンキーの視点からみた日本史では、土地(シマ)を持たせたら持った奴らは絶対に調子乗るという鉄板の法則があります。
大きな組同士の抗争が長引くと、有力な勢力を仲間に引き入れるためにお互いに良い条件を出し合います。尊氏は、「半済令」という法律を出します。
これは、鎌倉時代につくった仕組み「守護」(地方のシマを支配する力をもったヤクザが警察をやっているような存在)に地域のシマのみかじめ(年貢)の半分を持って行っていいよという話です。最初は1年限定で抗争の重要地域だけでしたが、どんどん地域が広がっていきます。
また、守護には鎌倉時代から比べて大きく権限を与えるようになります。鎌倉時代は、シマが誰のものかで揉めた時の裁判は本家の専任事項でしたが、ここで田畑の争いの裁判権や、裁判で決まったことを実力行使する権限も守護に与えました。そんなことしたら、自分に都合の良い裁判をやって、力づくでシマをぶん取るやつが出てくるに決まっています。
幕府がちゃんとケツモチの義務も果たさずに、みかじめを自由に取らせたらその地域のヤンキーたちはつけあがるに決まっています。
しかし、ダラダラと長引く抗争で味方を増やすためには、ある程度大盤振る舞いしなければなりません。眼の前の抗争での味方と引き換えに、室町幕府は地方のヤンキーたちの力を強めることで後々の政権運営の基盤をガタガタにしてしまったのです。
こうやって力をつけていった地方の組のことを「守護大名」と言います。
しかし、守護大名はまだ幕府からもらった権限を使って自分のシマを増やしているレベルです。この後戦国時代になると、幕府とか関係なくケンカの強さでシマを拡大していく時代になるのですが、室町時代は、まだギリ幕府の権威が残ってる状態です。
そういう違いはカツアゲされる農民にはどうでもいい話なんですが、いずれにせよ横暴な組が増えてきたので、農村は農村で武力を蓄え、他のシマを荒らす新しいヤンキー勢力が生まれてきます。農民も一揆をして対抗するので、揉め事はどんどん増えてきます。みんながヤンキーになる時代の幕開けです。
3代目足利義満
その後尊氏も死に、幕府も3代目になったときに出てきたのが足利義満です。
義満は2代目の父が早く死んだことで、10歳で将軍になります。ヤンキーの家に育ったボンボンです。
義満が幕府を引き継いだときはまだ南北朝の抗争は続いています。そして、抗争で子分を増やすため子分たちに自由にさせていたせいで、各地の守護大名たちも強い力を持っています。しかし、子分たちも自分だけで日本統一ができるほどの力もないため、一応室町幕府の下にはついている状態です。義満からしたらあまりいい状況ではありません。
抗争を終わらせて、子分たちを引き締めないと自分の思いどおりにはできません。
義満は結構策を弄するタイプでした。本当に自分の言うことを聞いてくれる子分もあまり多くない状況でしたから、すべてを暴力で解決できる状況ではないです。なので、その時々で組む相手を変え、策で嵌めて敵を弱らせてから倒すという手をよく使います。粗暴なだけのヤンキーではないのは育ちのよさによるものでしょう。
権力固め
義満の周りには有力な組長がたくさんいます。親分である義満の補佐をする役職として「管領」という役職が置かれていて、こいつらが組の運営を取り仕切っています。
鎌倉時代も将軍と執権という組長と組長補佐の関係がありましたが、鎌倉では3代目組長が暗殺されてからは執権が組長代行として強力な権力を持つようになりました。
ヤンキーだから関係ない話ですが、難しいテストだと執権と管領の違いはなんですか?と問われることもあります。時代によって似てるけどちょっと違う制度とかはたくさん出てくるんですが、それぞれの細かな違いを憶えるより、「誰が組の中で権力を持ってるのか」という観点で考えたほうが手っ取り早いです。
管領は執権ほど強い権力はなかったのですが、それはそういうことを狙って制度を作ったのではなく、有力な組長が数人いたので、一つの組だけでポジションを独占できなかったことと、義満が最終的に強い組長になったから結果的にそうなったという話です。
室町時代は三管領、四職など有力な組の組長が世襲で選ばれるということになっていて教科書には名前も書いてありますが、こんなにヤクザの親分の名前がたくさん出てくるというのは、誰か一人の強い親分が治めることができなかった証拠です。江戸時代には一度にこんなにたくさんの有力大名の名前は出てきませんし、逆に戦国時代はもっとたくさんのヤクザの名前が出てきます。
工作とダマシで権力を固める
最初、義満は父の遺言で組長補佐になった細川組の細川頼之にサポートしてもらって政治をしました。細川頼之は抗争も組の政治も精力的に行い、室町幕府は安定してきます。
しかし、段々と細川頼之を嫌うヤンキーたちが増えてきたところで、義満は細川頼之を解任してしまいます。小さい頃からあんなにお世話になったのに、勢いのある斯波組にあっさり乗り換えました。この情のなさが尊氏とは違うところです。
その後、義満は有力な子分たちを潰すことにします。
有力な守護大名の跡目争いにちょっかいを出して内部抗争を引き起こさせ、両陣営が弱ったところで抗争を収めるという名目で潰しに行きます。そうやって有力な子分たちを弱らせて、自分が一番強くなるようにしました。
そうやって力をたくわえたところで、一番の懸念事項の南北朝の統一です。南朝はもう弱りきっています。しかし、まだゴネているので、義満は、今後は北朝と南朝の天皇の家系から交代で天皇を出すよと妥協案を出します。
これで南朝は折れて南北朝統一になりますが、義満は約束を守りませんでした。天皇にすら嘘をついてだますヤクザっぷりです。
ヤンキーセレブになるアゲイン
ヤンキーなのにセレブになりたがった人と言えば、平安時代後期の平清盛です。
清盛の時代は、セレブ絶頂の時代から少しずつヤンキーが力を付けてきた中で、まだ社会の中心だったセレブの方に入ろうとしていった時代でした。しかし、最後はヤンキーの不満をまとめあげた別のヤンキーチーム源氏にやられます。
義満もセレブになろうとしていました、しかし義満の場合は清盛とちょっと違います。
平清盛のようにセレブがメインストリームだから、そこに入りたいというわけではなく、多分、マジで日本の頂点に立ちたかったのでしょう。天皇になることを狙っていたようです。日本の頂点に立つには、ヤンキーの中でもセレブの中でも両方の社会で偉くなることが必要です。
太政大臣というセレブの中でも最高の官位を得ただけではなく、天皇しかしてはいけない行為、使ってはいけないものをガンガンやりはじめます。
そして、天皇のお母さんがなくなったタイミングで、自分の妻を国母(天皇の母)の代理にしてしまいます。義満の妻は皇族ではないのですが、無理にねじ込みました。そうすることで、自分は天皇の父のような存在になったのです。
そして、息子の元服の儀式(成人式)を天皇の子どもと同じ作法で執り行い、いよいよ天皇になるのかというタイミングで義満は死んでしまいます。病死なのか暗殺なのかはわかりません。
ヤンキー文化 東山文化
セレブになりたかった義満ですが、文化の趣味はドヤンキーです。
一番ヤンキー的な建物は、第0回の最初でも取り上げた金閣寺です。
金色で一つの建物の中に禅宗と武家と貴族の建築様式を全部混ぜたスタイル。
見た目はゴージャスで、かっこいいもの全部足したらもっとかっこよくなると考える、極めてヤンキー的な発想でできたヤンキー建築です。
義満はヤンキーなので、ベースはヤンキーの文化なのですが、天皇になることを狙っていた義満はセレブとも仲良くなってきたせいで、この時代はヤンキー文化にセレブ文化が混ざっていきます。
ヤンキー文化の特徴である派手さ・短絡さと、セレブ文化の特徴である分かる人だけが分かればよい洗練がミックスされていきます。
例えば、お茶やお香などの貴族の嗜みは、茶葉の産地やお香の種類を当てるゲームになり、賭博の対象になりました。貴族の上品な文化もヤンキーの手にかかればギャンブルに変わってしまいます。
反対にヤンキー的な文化がセレブの手で洗練されたものとして「能」があります。
能は元々モノマネなどの猿楽や農民の踊りの田楽から始まったものです(モノマネといっても、歴史上の有名人などのマネです。元ネタがみんなに知られていないとモノマネは芸として成立しないので)。この時代の世阿弥・観阿弥親子が舞台芸術に発展させました。
能は「幽玄」というわかりにくいコンセプトを持つようになります。私もセレブのことはよくわかりませんが「奥深く深遠ではかり知れないこと」を言うようです。パンピーには分からないけど、なんか特別な感じがする、分かる人だけが分かるコンセプトは、セレブが自分たちが特別だと思うのにぴったりです。
元々庶民の芸から始まった能はこうしてセレブの文化になっていきました。
いつもの仏教保護
平安時代から相変わらず、新しい政府は自分たちの言うことを聞く仏教を優遇します。
相変わらず比叡山延暦寺と奈良の興福寺という武闘派の寺が強い勢力を持っていました。両方とも南朝の味方しましたし。
というわけで、室町幕府も禅宗のトップ南禅寺を頂点にして、その下に5つの有力な寺を認定して「京の五山」を制定し、幕府オフィシャル仏教はここと指定します。
幕府の支配下になると仏教の文化も発展するので、文学や水墨画も発展しました。
室町幕府のシノギ
これだけ派手なことができた義満のシノギの元は中国との貿易でした。
鎌倉幕府にカチ込んできた「元」は滅びて「明」に代わったので、過去は水に流して手打ちをすることにしました。
ところで、暴力が多元化すると、色々なところでカツアゲが生まれてきます。東アジア全体でみると、鎌倉幕府の力が弱まり南北の動乱が起きてきただけではなく、元も滅んで暴力の統制が取れなくなってきた状態にありました。
日本の食い扶持に困ったヤンキーは船で朝鮮半島の国、高麗に行ってカツアゲをするようになります。これを倭寇(前期倭寇)と言います。義満はこれを取り締まる約束をして、明と貿易を始めます。ちなみに、高麗は倭寇にやられすぎて力を弱め、倭寇へのヤキ入れで名を上げた李成桂が新たに李氏朝鮮という国を作ります。
中国は、自分たちが世界の中心だと思っているので、貿易するときには、相手側の王が中国の子分になることを求めています。元が明になっても同じです。
その代わり、子分になれば親分の器の大きさを見せるため、たくさん土産をくれます。貿易が商売の形ではなく、子分からの上納と、親分からの褒美の形で行われるのです。
義満は日本の王を名乗り、明の子分になりました。子分と言っても政治に口を出されるわけでもなく、形だけの部分は大きいのですが。
もちろん、外国の子分になることに反対する奴らもいましたが、義満に文句を言うことはできませんでした。
中国から入ってきた銅銭は貨幣経済を更に発達させます。
資本が入ることで商業が栄えます。儲かってるところがあればきっちりみかじめを払わせなければなりません。こうして、室町幕府のシノギは貿易や商業からのみかじめ徴収が大きくなっていくのです。五山に認定してやった寺からのみかじめもしっかりとります。
ほぼ農民からのみかじめだけで成り立っていた鎌倉幕府とはシノギの質が変わっていくのです。
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