ヤンキーとセレブの日本史 Vol.4 平安時代 その1
平安京への遷都
銅鏡とかのゴタゴタが終わって新しく即位したのは桓武天皇。バックには当然藤原家がついています。
天皇の家系も抗争後に2系統に分かれており、これまでずっと、「天武系」派閥の天皇が長く続いており、奈良の平城京は天武系の勢力が大きい土地でした。桓武天皇はもう一つの派閥「天智系」。奈良にいたら昔からいる奴らが色々と口を出してきます。
それに、墾田永年私財法で新たに耕した土地は自分のものにできるようになり、寺や貴族は逃げてきた農民を囲い込んでシマを広げました。シマを広げれば力が強くなり、政治に口出しをしてきます。
奈良にいるといらんちょっかいがいろんなところから入ってくるので、めんどくさくて仕方がありません。なので、京都に引っ越すことにしました。最初に選んだのは長岡京という土地ですが、よく調べなかったのか水害が起こりやすい結構最悪の場所でした。そこで現在の京都の中心部に平安京という都を作りました。
平安京は水もあり、全国の交通の要衝です。西の方からも北陸の方からも東の方からも道が交わる地点にあり、どこにでも兵隊や役人を派遣しやすく、交易もし易い場所です。
南側に開けて、東西北を山に囲まれて守りやすい。
そこに中国の都を真似た都市を作り、明治になるまでずっと首都でありつづけました。
天皇の力を高める
邪魔な奴らを奈良に置き去りにして、新しい都で、天皇の力を振るっていくには、もっとすごさを見せつけなければなりません。そこでいくつかのすごさを見せつける政策が行われます。
強さのアピール
すごさを見せつけるには、敵を倒して力を見せつけるのが有効です。
戦争に勝てる指導者はいつの時代も人気があります。
ということで、まだ朝廷の支配が及んでいない東北地方に行き、蝦夷(えみし)と呼ばれる組を倒すことにしました。
この時に征夷大将軍として坂上田村麻呂を任命し、アルテイという蝦夷の組長を討ち取ります。「夷」とは未開の人たちという意味で、征夷大将軍は、それを征してくる将軍という意味です。
古い仏教を排除して、言うことを聞く仏教を立てる
仏教は国にとってとても大切なんですが、その力は墾田永年私財法でシマを広げた奈良の寺たちに握られています。
なので、自分たちの言うことを聞く新しい仏教が必要です。
ということで、中国(唐)に空海と最澄という二人の僧侶を派遣して、中国の最新の仏教を学ばせ、新しい宗派を作らせました。
朝廷がスポンサーになり、最澄は滋賀と京都の堺の比叡山に延暦寺、空海は和歌山に金剛峯寺を作りました。
両方とも都からは離れた場所です。奈良時代のように寺に口出しをさせないために、遠くに置きました。
しかし、そうは言っても、この時代は寺ですらシマを集めれば武装して勢力を拡大していくものです。後々の時代の政権はこの武装した寺に手を焼くことになるのです。
藤原一家の内輪もめからの北家の権力掌握
藤原一家は、不比等の4兄弟のそれぞれの家に分派し、お互いに勢力争いをするようになりました。その中で一番力が強かったのが「北家」という一家でした。
北家のことを気に入らない「式家」一家が、退位した天皇をそそのかし、奈良に都を遷そうと画策しますが、バレて詰め腹を切らされました(薬子の変)。これでライバルを蹴落とした北家は、やり放題になります。
気に入らない貴族もぶっ殺して、そいつらが次の天皇にしようとしていた皇太子も変えさせて、ついに念願だった自分の孫を天皇にすることに成功します。
そして、子どもだった天皇を補佐するという立場で、藤原一家の組長の良房は、皇族以外で初めて「摂政」という地位につきました。
摂政は子どもの天皇の補佐という立場ですが、藤原一家は、天皇が成人してもその甘い汁を手放すわけがありません。天皇が成人したら意見を申し上げる「関白」という地位を作って、ずっと藤原のターンを続けます。
藤原と天皇の間の隙間風
藤原も代替わりして、基経の代になったとき、天皇から基経に感謝の手紙が送られてきました。その一文に基経はキレて、職務放棄をします。中国の故事からもってきた「阿衡の任」という言葉ですが、これには位が高くても実権はないという意味があって、そこにムカついたようです。天皇は最高の子分だとほめたつもりだったのに。
天皇は困ってしまいました。見かねた菅原道真という人が助けてあげて、天皇は基経に詫びをいれます。
そこから天皇は藤原めんどくせーと思い、菅原道真を重用するようになります。
菅原道真は学問をちゃんとやってる賢い人です。
道真は国力が衰えた唐への遣唐使はコスパが悪いからやめさせました。贅沢品がはいってこなくなったら、貴族たちは面白くありません。しかし、道真はどんどん出世していきました。
藤原は面白くありません。
道真が裏切るというデマを流して、九州の田舎に飛ばしてしまいました。そこで貧しい生活をして道真は死んでしまいます。
その後に、デマを流した藤原が病死したり、都で病気が流行ったり、天皇の家に雷が落ちたりして、みなは道真の祟りだとビビりました。
それで、道真を学問の神様として祀る神社を建てることにしました。
貴族の仕事っぷり
セレブの仕事とインスタの始まり
この時代、男は日記をつける習慣がありました。
貴族は、貴族の中で尊敬されることがとても大切です。
その尊敬を集めるためにやらなければならないのが、セレブのパーティーをちゃんととりしきることです。
貴族はパーティーを開いて漢詩や和歌をつくったり、季節折々のイベントを開いたりとても忙しいのです。政治とかやってる暇なんかありません。
そのパーティーの段取りでミスると、あいつは教養がないとディスられるので、貴族は日記にその段取りを書いて子孫に伝えていかなければなりません。
日記は教養人らしく外国語(漢文)で書きます。
しかし、漢文は外国語。書きにくいので普段の話し言葉で書きたい。日本語を書くためのかな文字はつくられていたのですが、それは女の人のものとされていました。
高知に派遣されていた役人の紀貫之という人は、さすがに男のくせにかな文字で書くのは恥ずかしいというので、女の人のふりをして「土佐日記」という日記を書き始めました。
そこから女性たちもかな文字で日記を書くようになりました。表現方法があれば、自分の体験したあれこれを表現したくなる人も出てきます。今の時代でいうインスタやTik tokのようなものですね。
ここから、文学を書く人たちが出始めてきます。
公金チューチューの地方自治
セレブが信じるのはセレブだけ。ヤンキーのようにどこの馬の骨とも分からない奴らと盃関係を結んだりはしません。
現代だって、偏差値の高い大学を出て有名な上場企業に入った人たちは、わざわざ田舎のヤンキーと仲良くなって一緒にビジネスやろうとかあんまりしないじゃないですか。セレブは都会で自分たちと同じような人たちを採用して、地方に派遣するんです。
貴族も同じで、「国司」という役職の貴族を任命して、地方の統治をさせます。本社から派遣されてきた支社長、中央官庁から県庁に出向してきたキャリア官僚みたいなものです。
国の役人として派遣された貴族の多くは地方で税をカツアゲし、私腹を肥やすことにしか興味がありません。公金チューチューです(正確には貨幣経済はそんなに発展してないで「金」ではないのですが)。
でも、私腹を肥やすことは貴族にとって、とても大切なことです。いいポジションにつけてもらえるかどうかは、上の貴族たちの差配次第です。だから、上の貴族に贈り物をして、気に入ってもらわないといけないのです。田舎の民よりも、貴族社会の上の方を大切にしなければ出世はできません。
それどころか、国への上納金のノルマを達成できないと次からは仕事を失ってしまいます。だからカツアゲも真剣です。
カツアゲから身を守るためのケツモチ
墾田永年私財法でせっかく自分の土地を持てるようになったのに、農民は国の役人にカツアゲされて辛くなります。
警察がない社会で、カツアゲをされていたらどうするでしょうか。
いちばん手っ取り早いのは、ケツモチをつけることです。
農民たちは、有力な貴族や寺に自分の土地を寄付して、みかじめ料を払う代わりに、税金を搾り取りに来た役人から守ってもらうようになりました。寺や貴族は荘園というシマを広めていきます(寄進系荘園)。
農民たちの中でもケツモチに守ってもらいながら、開墾をすすめ力をつける「開発領主」という勢力が出てきます。
シマが増えれば勢力が大きくなる、勢力が大きくなれば他の組と抗争が起きる。抗争が起きるので中央も警察や軍隊を送りますが、なかなか収まらず、中にはそのまま地元の勢力の中にはいってしまう軍人・警察官も出てきました。国司として派遣されたまま田舎に居座ってしまう貴族たちも出てきました。
地元のヤンキーと都で職がないセレブが合体して武士が生まれる
ところで、平安京を作った桓武天皇は子だくさんでした。
貴族の仕事は忙しいのですが、パーティーとかがメインの仕事ですので、ポジションも多く用意できません。他にも職にあぶれた貴族の息子たちがたくさんいます。そいつらは、地方に行きます。
地方では有力な農民たち「開発領主」というヤンキーがいます。こいつらと仲良くならばければ、田舎の生活はうまくいきません。
セレブは中央の威光を使ってある程度は命令できる立場ですが、実際に仕事をする上では地元に根ざした人間関係や情報網がなければうまく進みません。「僕はエリートだから僕の考えることはすべて正しい」なんて言ってると、ちゃんと協力してくれる人は出てきませんし、必要な情報も入ってきません。
農民あがりのヤンキーからしたら、自分たちのチームに天皇の身内が入ってくれたら、それはこの上ない名誉です。
「うちのチームは○○(有名なすごい人)がいる」という箔付けは、いつの時代にとってもヤンキーにとってステータスです。
そういう利害が結びついて、ヤンキー軍団は天皇の高貴な血を引くという箔付けを手に入れ、「武士」として力をつけていきました。
武士で有名な平家も自分たちの一門を「桓武平氏」と言って、桓武天皇の子孫であることを誇ります。
貴族が搾り取りをしてどんどん国の力を衰えさせ、シマをうしなっていくうちに、こうして地方のヤンキーが力をつけていくのです。
ヤンキー反乱する
力をつけたヤンキーたちは各地で反乱を起こします。
関東では、桓武天皇の子孫という「平氏」の平将門が、自分が新皇になると言ってチームを立ち上げます。
瀬戸内海では、国司で派遣されていた藤原純友が地元のヤンキーとチームを組んで、カツアゲをしまくっている他の国司から、上がりをぶんどる活動を始めました。
日本の貴族は下品な暴力など好みません。
海外では貴族が子弟に武芸をさせる国もありますが、日本は外国の侵略がないせいか、国内が落ち着くと貴族は暴力を遠ざけます。誰だって痛くて野蛮なことをしたくないのは理解できます。
ところが、地方でヤンキーが暴れ始めると暴力で対抗しなければなりません。
しかし、貴族は暴力をもっていないのです。
そこで貴族は他のヤンキーたちに頼り始めます。暴力のアウトソーシングです。
貴族や朝廷は他の武士団を雇って、反乱を鎮めたり、ボディーガードをお願いするようになります。これなら自分の手を汚さずに、痛い思いもせずに暴力を使うことができます。
でも想像してみてほしいのですが、ヤクザと戦うために別のヤクザを雇ったらどうなりますか?最後は自分が雇ったヤクザに食いつくされるのは目に見えています。
平安時代でも、貴族は便利な暴力のアウトソーシングを使い始めたところから、徐々に武士に乗っ取られていくようになるのです。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?