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ヤンキーとセレブの日本史Vol.13 南北朝・室町時代その3

室町幕府は偉大だった3代目義満が死んだ後、息子の義持が4代目を襲名します。
義持は父のことが大嫌いで、父を否定するようなことばかりします。
朝廷が死んだ義満に「法皇」の称号をあげると言ってきます。法皇は引退した天皇しかなれないものです。父親が大嫌いな義持はそれを断ります。
そして、義満が始めた明との貿易も辞めてしまいます(その後すぐに復活するのですが)。

義持の政治は、義満の作った基盤の上で、まあまあ安定してはいたのですが、その裏で守護大名たちの力はどんどん強まっていきます。


パンピー(一般ピープル)の生活

その頃、地球規模で寒冷化が広がり、大飢饉が起きてきました。
農村は食べるものがなく、強盗が頻発し、まるで北斗の拳のような世界でした。

室町時代の農村のイメージ(北斗の拳より)


農村には食べ物もないので、人々は都に押し寄せてきます。基本的にみんな風呂とか入ってなくて不潔で、栄養状態も悪いので都では流行り病も発生します。
こういうときに金儲けをするのは高利貸しです。借金を返せないやつは人身売買です。今で言う闇金です。
たまりかねた農民たちは村で結束して、高利貸しを襲い始めます。どんどん治安が悪くなるので、幕府は借金をチャラにしてやる徳政令を出します。
そうすると高利貸しも回収の見込みが立たないから金を貸さない→もっと困窮する農民たちが出てくる→別の高利貸しがもっと悪どく貸し付ける→徳政令を期待して農民が一揆をしてもっと治安が悪くなるという修羅道のスパイラルが始まります。

室町時代はみんながヤンキーになる時代です。
室町は今日もハードボイルド―日本中世のアナーキーな世界ー(清水克行著)」という本があるのですが、この本は室町時代の人々の生活や倫理観がリアルに書かれています。
村同士の争い、強盗団の話などが書かれていますが、基本的に全員自分勝手です。自分の身内だけが大切で、他の人たちがどうなろうかしったこっちゃないというスタンスです。

例えば、ある強盗の話なのですが、強盗殺人したら、息子の犯した罪の責任をとって父が自害してしまいます。強盗した息子はそれをものすごく後悔して仏門に入ったそうです。このときこいつが後悔したのは、強盗殺人を殺したことではなく、父親が死んだことに対してです。知らないやつを殺したことなんか気にしてないのです。しかし、室町時代では、これが美談として伝わっているらしいのです。この時代は本当に倫理観が身内贔屓の方向にぶっ壊れなのです。

倫理観のぶっ壊れ

室町時代は、幕府の力が弱かったせいで、朝廷や鎌倉幕府のように世の中の規範を示すような存在になりえず、自分の身は自分で守るしかない時代です。

現代の感覚で見ると室町時代の倫理観はぶっ壊れています。

しかし、自分から見たら非合理な行動であっても、その当事者には合理的な理由
があったりするのです。それを「あいつはヤンキー」だからとか「頭おかしいから」とか短絡的な理解をしても何も得るものはありません。
なぜ自分の価値観と違うことが起きているのか、自分以外の視点で考えるためにも歴史を学ぶこと、ヤンキーを知ることには価値があります。

社会全体の利益になることをすると、巡り巡って自分の利益になる社会というのは、きちんと法やそれを執行できるだけの支配が確立しているときにだけしか生まれない特殊な現象です。
朝廷や幕府が強いときは、ルールを守らなければ自分が痛い目に合います。
北斗の拳のような暴力で自分の都合の良いことができる社会では、社会全体の秩序を守るよりも、自分や自分の身内だけ得することをする方がいいに決まっています。

龍が如くスタジオはかつて、北斗の拳と龍が如くが融合した「北斗が如く」を発売した

室町時代の倫理観は、世の中の理不尽な暴力から身内を守ることに根ざしています。幕府や朝廷などが強いときは、自分が属している社会は、日本全国に繋がっていると感じられますが、暴力が分散化しまくっている中では、自分が属しているのは、自分たちの暴力で自分たちを守れる狭い範囲だけになるのです。

農民も村単位でまとまって暴力で解決しようとするし、守護大名も勝手なことばかりしています。いつの間にか幕府が始めた日明貿易も守護大名のシノギに変わっており、ますます力を蓄えます。
室町人の倫理観が、現代の感覚ではぶっ壊れていてあまりにも身内贔屓なのは、合理的に考えて、自分の暴力で自分の身を守ったり奪ったりする方が生きられるからでしかありません。

現代に生きていると人権や法の下の平等などを当たり前にあるものと誤解しがちですが、人類の歴史の中ではこのような考え方はかなり最近になってできたものです。日本国憲法12条にも「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と書かれており、自由も権利も努力して保持するものとされています。

人権・平等などの概念を使わずに、他人から奪って身内びいきをするよりも、社会の秩序を維持する振る舞いをする方が大切だと説明することはとても難しいです。
人権や平等なんて概念もなく、自分の身は自分で守らなければならない時代に、身内よりも他人の権利を尊重しろだなんて、考えが及ばないでしょう。(ただ、私達は説明が出来なくともそれを不快だと思う本能もあるので、神や仏の名において知らない人にも優しくしなさいと説いてきた宗教が一定の支持を得てきました)
社会性を伴った倫理観は社会の安定と身の安全があってのもの
です。

応仁の乱に向けての暴力の蓄積

結果、義持は死ぬときに自分の後継者を指名することができませんでした。(息子を5代目にしたのですが、早く死んでしまったので、義持がもう一度代理で登板しています。)
義持は、6代目の指名を求められますが、「指名しても約束守ってもらえないなら意味ねーし、お前らで話し合って決めろ」と言い残して死にます。もはや、将軍ですら子分の守護大名の同意なく自分の跡目を決めることができないような状態になっていました。
仕方なく、次の将軍はクジで決めることにしました。次の6代目将軍は足利義教が就きます。

義教は将軍の立場が弱いことが分かっているので、だからこそあえて強気に出ます。気にいらないやつをバンバンぶっ殺し、政治は全部自分で決める恐怖政治を始めます。
そんなことしてるので、義教は、ビビった守護大名の赤松にぶっ殺されてしまいました。
赤松もぶっ殺されましたが、怖い義教がいなくなって、ますます守護大名の力は高まっていきます。
7代目には9歳の子どもの将軍が就きますが、早く死んでしまい、8代目にはその弟の8歳の義政が就きます。

もはや、室町幕府を動かすのは守護大名たち。しかし、鎌倉時代の北条家のように1つの組だけが強い状態ではないので、権力争いがドロドロしています。室町時代のクライマックス、応仁の乱に向けて社会の中に暴力がどんどん蓄積されていきます。

暇だからセレブ文化を育てる 東山文化

義政はやることがないのでセレブの文化に傾倒していきます。組の金をつぎ込んで、庭や建物を作ります。足利家はヤンキーの家でしたが、代替わりすれば次第にセレブに変わっていきます
義政の趣味は東山文化と呼ばれるのですが、セレブらしくとても洗練されており、ヤンキー丸出しの義満の派手な趣味とは真逆でした。
義政は「侘び寂び」というコンセプトを作ります。Wikipediaによると「わび・さびは、慎ましく、質素なものの中に、奥深さや豊かさなど「趣」を感じる心」だそうです。

東山文化の最高傑作と名高い銀閣寺と呼ばれる慈照寺
臨済宗相国寺派より


セレブは持っている側なので、下品に全部ひけらかすのではなく、分かる人だけが分かるように慎ましく上品に表現します。
銀閣寺と呼ばれる義政が立てた寺「慈照寺」は、義満のヤンキー建築金閣寺とはとても対照的です。銀閣寺という名前も江戸時代につけられたようでそもそもシリーズ物ではありません。義政も下品なゴールデンヤンキーテンプルと一緒にして欲しくなかったのではないかと思います。(私はヤンキーなので、絶対的に金閣寺の方がかっこいいと思いますが)

銀閣寺を銀貼りにした想像図。一気にヤンキー感が溢れ出て侘び寂びが消し飛ぶ
出典:西陣に住んでますより

働かない夫に怒る妻、そして応仁の乱

あまりにも義政が政治をしないので、妻の日野富子は怒っています
仕方ないので、富子は自分でシノギを始めます。

富子は次第に権力を強めていきます。守護大名への金貸しなどをして資金を貯め、政治にも口を出すようになってきます。

そんな中、義政の次の跡目の指名で揉めます。
男の子がいなかった義政は、僧侶になっていた弟に継がせようと無理やり僧侶から極道に引き戻しますが、その後富子との間に男の子が生まれてしまいました。

それで弟と息子のどっちが次の将軍になるか揉めるようになります。
トップの揉め事は、子分たちにも伝わります。室町幕府は子分の統制が採れていませんので、力をためている組もたくさんあり、そいつらはさらにシマを広げたいと思っています。
それぞれの組での組同士の抗争、組の中での跡目争いなど揉め事の火種はそこら中にあり、皆暴力を溜め込んでいます。ほんのちょっとのきっかけがあれば、爆発する火薬庫に火をつけたのが、この将軍の跡目争いでした。
夫が働かなくて趣味ばっかりしててムカつくという妻の怒りから始まったストーリーは、日本全国を巻き込み、歴史に名を残す抗争に発展します。

そんな流れで弟軍と富子軍で抗争が始まり、子分たちも両陣営に入って抗争を始めます。
子分たちは親分への忠誠もないので、自分に有利な陣営を選んで、抗争に参加します。さらに、状況が変わると途中で陣営を変えたりします。
兵隊が足りないので、農村の荒くれヤンキーも連れてきます。京都が戦場になり、平安時代から残っていた寺なども燃やされます。

戦乱はダラダラと11年も続きます。もはや誰が敵で誰が味方か分からなくなっている状態です。幕府は途中で手打ちを探り、結局富子の息子が将軍を継ぐことになるのですが、参加していたヤンキーたちは将軍を誰にするかという大義ではなく、自分の利益だけで参加しているので、抗争は終わりません。
結局、抗争は自然解散になりました。どっちが勝ったかよくわからないままに、みんな疲れたので解散してなんとなく終わりました。

残ったのは焼け野原になった京都だけでした。室町幕府は辛うじて残っていますが、その影響力は消え失せました

応仁の乱の始まりと終わりの理由はわかりにくいと言われますが、まともに因果関係を理解しようとするから分かりにくくなるのです。
幕府が弱かったせいで、みんなが暴力を溜め込んでいて、たまたま将軍家の跡目問題で火がついて、みんなが自分勝手に戦って疲れ切ったので終わっただけの話です。
スケールが大きなだけのヤンキーのケンカです。

しかし、これにより幕府の権威も権力もなくなったことが次の戦国時代の入り口になるのです。

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