ヤンキーとセレブの日本史Vo.10 鎌倉時代4
暴力の分散化
平安時代はセレブが統治する時代です。
鎌倉時代はヤンキーが統治する時代です。
そして、その次の室町時代はみんながヤンキーになる時代です。
この鎌倉時代後期から、その兆しが見え始めました。
そのポイントは暴力の分散化です。
鎌倉時代は、頼朝の親っさんとの約束でシマのケツモチをしてもらうことで、ヤンキーたちもまあまあ統制が取れていました。暴力の元締めが鎌倉に集中していたのですが、ここから先は地域ごとに暴力の元締めが分散していきます。
鎌倉幕府が回らなくなってきた原因としては、元寇は大きなきっかけですが、それだけではなく、社会の変化の中で最初に作った制度がうまく回らなくなってきたことがあります。ヤンキーは弱いものの下にはつきません。絶対に安心できるケツモチがいなくなり、ヤンキーたちは、自分のシノギは自分でケツを持つという考え方に変わっていきました。
現代でも治安が悪くなるのは、ヤンキーなど悪い人たちのせいにされがちですが、鎌倉時代のヤンキー武士だって、頼朝の親っさんとの約束である御恩と奉公が機能していた時には比較的お行儀よくしていました。
ヤンキーだっていつでも暴力で解決するなんてことはしません。ヤンキーが暴力で解決するのは、ルールを守るよりも暴力で解決したほうがメリットが大きい環境下でのみです(現代のヤンキーだって、悪いことしなくともお金も機会も提供される環境ならばほとんどはグレていません)。
鎌倉時代の後期から室町時代にかけては、ヤンキーが唯一頼れる強力なケツモチがいないがために、自分のシマは自分の暴力で守るという流れが生まれていき、最終的には戦国時代に至るのです。
まずは、ヤンキーたちに暴力で解決するように方針転換させた環境の変化を見ていきましょう。
鎌倉幕府がガタガタになった理由
元寇の報奨を出せないから借金をチャラにしてあげたらケンカが増えた
元寇により、ヤンキーたちは大損をしました。自腹で大金を払ってまで参加した死闘の見返りとして、本家の幕府からの褒美を期待しましたが、大して出ませんでした。
本家も敵からシマを得た訳では無いので、ない袖は触れません。
中には借金をして抗争に参加した小さな組のヤンキーたちもいます。仕方ないので、幕府はヤンキーたちの借金を帳消しにする「徳政令」を出しました。これで借金のかたに出したシマも取り戻せるようになります。
しかし、シマを取り戻して良いなんて法律を出せば、揉めるのは目に見えています。今シマを持っている者と取り戻そうとする者の間で暴力沙汰がおきます。
そのうちに荘園の持ち主に反抗するようなヤンキー武士たちも出てきます。治安はどんどん悪くなっていきます。
金儲けのうまい勢力が出てくる
また、鎌倉時代は中国から入ってきた銅銭の普及で貨幣経済が発達してきたので、喧嘩上等のヤンキー武士ではなく、お金を稼ぐのがうまい新しい勢力も出てきました。
時として、単純な暴力は金融の力には敵わないこともあります。そいつらは金の力でヤンキーたちに言うことを聞かせて力を強めていきます。ヤンキーたちの不満はどんどん溜まっていきます。
分割相続をしていたら土地が小さくなった
鎌倉時代のヤンキーの土地の相続は、兄弟姉妹みんなに分割相続です。長男が一人で全部取るということではなく、みんなで仲良く分け合うので、代が進むごとに相続できる土地が小さくなっていきます。それでも抗争があってシマをぶん取れる時代はよいのですが、承久の乱で全国統一をしてしまった後はもう奪う土地もほぼないので、詰みの状態になっていきます。
政権内の権力争いで政治が機能しない
これだけ色々起きているんですが、でも政治がその問題を解決できれば、社会の混乱はもう少しマイルドになったはずです。鎌倉幕府がその役割を果たせなくなってきたことが最大の原因ではないでしょうか。
組長代行の北条家も時代が進み、分家ができてきました。北条家の本家筋の家系の人間を「得宗」と言い、得宗がすべてを仕切る体制に変わっていきました。モンゴルを退けた北条時宗はやっぱすげーということで、その得宗の権力が強まっていったのです。それに得宗は金儲けも得意でした。
そうすると、子分のヤンキーたちに良い思いをさせてやるよりも、自分の地位を守るために得宗の方を向いてばかり仕事をする奴らが出てきます。
子分を大切にしよう派と、得宗にすり寄る派で内部争いが生まれて(霜月騒動)、すり寄る派が勝って得宗の権力が強くなり、最終的には得宗は執権よりも発言権が強まります。
組長はずっと不在(正確にはお飾り組長はいる)で、組長代行の執権よりも北条の本家筋の方が強いという訳のわからない状況になってきており、そうなると子分のヤンキーたちの面倒を見るよりも権力争いの方が大切になってくるのです。やってることがまるでセレブのようです。
組長がケツモチをして子分の土地を守り、農業を中心に社会が回ることを前提とした鎌倉時代の初期にできた制度では、この時代に合わなくなってきています。
貨幣経済への対応、徳政令などから生まれた暴力事件の解決、分割相続などでシマが小さくなったヤンキーへの対応など、やらなければならないことはたくさんありました。しかし、執権だった北条高時は酒を飲んで遊んでばかりいます。
幕府が何もできなくなってきたことで、問題は解決せずヤンキーたちの不満がたまりまくっていきます。
ヤンキーらしさの復興
悪党
そんなこんなで、幕府にはケツモチの力がないことが分かってきて、ヤンキーたちは自分のシノギを自分で工夫してやっていくことになります。
幕府に属さない小さな組が、寺や貴族の荘園を襲ったりしはじめました。被害にあったセレブたちは、そのヤンキーのことを「悪党」と名付けました。
これは、人権や私有財産の保護という社会全体の倫理やルールに反する「悪」という意味ではなく(というかこの時代にそんな考えはない)、セレブとか幕府からみて言うこと聞かない「悪」という意味です。
この時代の「悪党」という存在が出てきたことがわざわざ教科書に乗っているのは、幕府にケツモチをしてもらわずに、自分で自分のケツモチをしてシノギを始めたヤンキー武士が出てきたことが、時代の変化を象徴しているという意味です。
要はセレブや幕府の統制が効かない暴力を扱う存在がでてきたということです。
そして、暴力は権力を手にするために必須の道具です。これまで、暴力は鎌倉幕府に独占されていましたが、幕府にも朝廷にも属さない地元密着の組である「悪党」たちが出てきたことで、幕府以外にも暴力を使って権力を手にする目が出てきました。朝廷はこの悪党たちと組んで暴力を再度手に入れるのです。
「悪党」とは、ケツモチの変化で生まれた、社会を動かす暴力の分散化現象ですが、それとは別にファッション面でも「婆沙羅者」というスタイルでヤンキーらしさが復権してきます。
婆沙羅者
鎌倉時代のヤンキー武士は頼朝の親っさんの意志をついで質実剛健でした。
悪党は別に頼朝の親っさんのことを慕っているわけではないので、好きな服を着て好きに生きます。鎧なども金銀で派手に飾り、普段の服も派手な格好です。ヤンキーファッション全開です。言動もヤンキー丸出しで、こういうヤンキー丸出しのファッションや言動をする人たちのことを「婆沙羅者・ばさら者」と呼びました。
そのうち、大名なのにヤンキー丸出しの「ばさら大名」なども出てきます。
婆沙羅者の当時の絵がネットで見つからないのですが、婆娑羅大名の元祖と言われた佐々木道誉(ささきどうよ)の姿がNHKの大河ドラマ「太平記」に出てきます。(大河ドラマはちゃんと時代考証をやってるので、多分正しいはず)
これはヤンキー中学生が卒業式に着る2色学ランと全く同じセンスです。
ヤンキーのセンスは何百年経っても変わりません。
ヤンキーファッションの意義
ヤンキーがオラついた派手なものを着るのは、自分のすごさをわかりやすく見せつけることで、無駄な争いを減らし勢力を広げる効果があります。
なので、ヤンキーファッションは世の中が乱れてきたときにはとても合理的な服装です。
でも、なぜ平和な現代でヤン服を着るのか?という疑問が湧いてきます。
最近の学校はだいぶ変わりましたが、2000年代なかばまでは、学校の中は日本国の刑法や様々な法律が通用しない場所でした(今でも一部通用しない学校はあります)。
学校での体罰は明治時代から教育令で禁止されているにも関わらず、教師による体罰も普通にありましたし、生徒同士で暴力をふるったり、カツアゲをしたりしても刑事事件に発展することはよほどの悪いケースを除いて極めて稀でした。
現行刑法は1908年に施行されましたが、「殴ってはいけない」という超単純なことを日本人がある程度理解したのは刑法施行から100年近く経ってからです。
組織内で殴る蹴るが当たり前だったのは、暴走族などヤンキーの組織内だけではなく、普通の部活の中でもよく見られた話です。
昭和から平成なかばまでの学校の中は、鎌倉後期や室町時代とさほど変わらない程度の法治レベルだったので、ヤンキーも婆沙羅者と同じような格好をして、強さを誇示するのは当然ではないでしょうか。
ヤンキーファッションの美しさ
婆沙羅ファッションは、室町時代にも引き続き流行り、その後、幕府に禁止令が出るようになりました。しかし、その頃には、セレブの一部にも取り入れる者が出てきました。
ヤンキーファッションはイメージで悪趣味だと思われがちですが、そういう色眼鏡を外してみるとかっこいいものも多いのです。
例えば、現代でも高級ブランドのイブサンローランがプロモーションビデオに族車を使ったり、グッチがヤンキー趣味のスカジャンを出したりしています。AngelChenという海外のファッションブランドは、特攻服風のコートも出しており、日本のヤンキーに対して偏見のない海外のセレブの中にはヤンキーファッションが受け入れるシーンも見られます。
この時代のセレブたちも婆沙羅者に眉を潜めながらも、内心ちょっとかっこいいなと思っていたのではないでしょうか。
後醍醐天皇の即位とクーデター
昔の時代は天皇家も誰が天皇になるのかでよく揉めました。鎌倉時代はヤンキーに実質の権力を奪われているとは言え、天皇は誰もが認める権威をもったすごい存在です。
鎌倉ヤンキー幕府と朝廷との抗争である承久の乱以後、天皇を決めるのには幕府が口を出すということになっていたのですが、鎌倉時代後期にはめんどいので天皇家に2つある派閥「大覚寺統」と「持明院統」で10年交代でやれやと決めていました。古代でもありましたが、天皇家が派閥に分かれるとそれを担いで抗争の火種にする奴らが出てきて、この時代も後々大きな揉め事になるのですが。
そんな中、後醍醐天皇が即位します。後醍醐天皇は、ヤンキーたちから政権を奪う決意を胸に秘めています。
後醍醐天皇は何度も幕府を倒す計画を立てるのですが、幕府にばれます。幕府のことが嫌いな奴らを集めて飲み会をしていたら、幕府にバレてめちゃくちゃ怒られて、天皇を退位しろと言われます。
後醍醐天皇はそれでまた怒って幕府を倒す計画を作るのですが、それもバレて仲間も殺されて、京都の山の中に逃げることにします。
幕府はもう後醍醐天皇は許さねー、と言って追い込みをかけることにしました。
その追い込みで特攻隊長に指名されたのがケンカが強くて有名な足利高氏です。高氏は後醍醐天皇を捕まえ隠岐の島に島流しにし、幕府は新しい天皇を立てました(さすがにヤンキーでも天皇は殺せない)。
ヤンキーの不満が幕府を倒す
しかし、この時代は鎌倉幕府大嫌いな奴らが増えています。悪党という幕府に属さない暴力団もたくさん増えてきました。幕府が気に入らない悪党や、後醍醐天皇の息子の護良親王が立ち上がります。
鎌倉幕府はまた足利高氏に反対勢力どもへのヤキいれを命じます。
しかし、足利高氏は、そこで幕府を裏切ります。
カチコミにいった京都で、アンチ幕府を襲撃せずに、逆に幕府の出先機関「六波羅探題」をぶっ潰してきます。
鎌倉幕府は足利高氏の裏切りに慌てふためきますが、その混乱の中、新田義貞というヤンキーが、幕府に不満を持ってるヤンキーたちを集めて鎌倉にカチコミをかけます。北条一族は自害して鎌倉幕府は滅びます。
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