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徒然なるは徒然ならぬ

先日、久しぶりに人の目に晒すような文章を書いてみて、たくさんのことを感じた。

メモ程度の乱文、稀にある大人たちとのビジネスメール、申請書、もう少し遡れば監査調書、もっと遡れば試験の半分くらいは論述式の試験だったし、ブランクというほどには感じていないつもりだった。
そういえば大学も大学院も卒業してるし、高校も卒業論文必須だったから、そんなことまでカウントすれば、論文なんか3本も書いてる。

でも、メモは自分が理解できればいいからちょっと違う。
試験や論文、社会との関わりで用いる文章は、問われていることに答えているか、構成は論理的か、読み手によって伝わり方が変わらないか、という視点の方が大事。
そうはいっても、ボクはそういった文章を書くのも割と好き。

けれども、徒然草のような洗練されたものでなくても、何となく思いついたことや、その日あったことを書くようなことからはだいぶ遠ざかっていたなと思う。

 つれづれなるまゝに、日くらし、硯すずりにむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

吉田兼好 徒然草 序段

と、ここで、ボクは気を利かせて、かの有名な徒然草の一説を引用し、現代語訳でも添えておこうかなと引用元を探していた。

何せ、元インテリエリートですので。その意味がボクの意図することと異なっていないか、それなりの情報源でチェックするのである。

現代語訳
 むらむらと発情したまま一日中、硯すずりとにらめっこしながら、心の中を通り過ぎてゆくどうしようもないことをだらだらと書きつけているうちに、なんとなく変な気分になってしまった。

徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)

「あやしうこそものぐるほしけれ」ってそんな感じの意味だっけ?
ちょっと違うかな、でもここまでで一文だし区切りづらいな、とか迷い始める。

もう少し解釈が欲しいなと思い、調べてみると、序段の書き出しについて、

有名な書き出しである。作者は、無聊の慰めに書いたと言い、三大随筆とも言われているが、単なる思い付きで書いた「随筆」ではなく、実際には非常に綿密な計画とコンセプトを持って書かれた中世の一日本人知性による魂の記録である。よって、読者にとって「あやしうこそものぐるほしけれ」というようなものではない。本書が、時代を越えて読み継がれてきたのも、これが人生の書となっているからであろう。

山梨県立大学 徒然草データベース

とか言い始めているではないか。

おやおや、何だか話が変わってきたぞ。随筆の代表みたいなツラして、そんな高尚なやつなの?
そもそも徒然草ってどんな話なんだ?序段以外に習ったっけ?
今度は吉田兼好や徒然草について調べ始める。

徒然草面白い内容もあるじゃん。今度これも触れてみよう。
などと思っているうちに、久しぶりにブログ的なこと書いたら、
ほとんど引用なのに全然上手く書けなかった、的な方向に持っていく予定が、すっかり何について書いているのかわからなくなってきた。

思い出した。ボクはインテリエリートというよりかはただ知的好奇心旺盛で、暇つぶしにWikipediaと電子辞書を読んで毒にも薬にもならない駄知識が増えていくタイプの人間だった。
そもそも、文章を書くのが好きだった頃、こんな小難しい知識やテクニックとか持ってなったな。

でもいいのさ。これがホントの徒然なるままだし、あやしうこそものぐるほしけれ、って感じだし。

あと、ボクは何だかんだインテリエリートなので、無聊の慰めに単なる思い付きで書いた「随筆」じゃなくて、実際には非常に綿密な計画とコンセプトを持って書いていく予定だしね。

信じるか信じないかはあなた次第だけど。

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