『罪悪感』と『屈辱感』を履き違えてはいけない
『罪悪感』と『屈辱感』には大きな違いがあるにもかかわらず、同じものとして扱われてきた。
皆さんはこの2つの違いを明確に説明できるだろうか?
『罪悪感』とは英語にすると『Guilt』である。
その一方で、『屈辱感』は、一番よく使われる英訳はHumiliationだが、ここでは『Shame』という言葉を用いたい
『I'm ashamed』で『屈辱だ』という意味になるのだが、ashameはshameの動詞である。
皆さんが高校生の時に使っていた英単語長なんかを見るとShameは『恥』と出ていたかもしれない。
つまり、自分を恥ずかしいと感じる感情のことだ。
罪悪感も屈辱感も体験としては似ている。
どちらもポジティブな印象を持っているものはいないだろうし、罪悪感に関しては拷問にも使われていた感情でもあり、非常に危険な感情だ。
この罪悪感を使った営業テクニックなんかもたくさん存在する。
では、この罪悪感と屈辱感は何が違うのだろうか?
それはその感情が向く対象の違いである。
主に、罪悪感とは自分の行動に向く感情である。
例えば、『なんであんなことを言ってしまったんだろう』とか、『助けてあげられなかった』というように、過去に自分がしたこと・しなかったこと、もしくは言ったこと・言わなかったことに対して感じる感情である。
その一方で屈辱感は自分自身に対して感じる感情である。
『自分はダメな人間だ』『自分は生きる価値がない』というように、自身全体のことを卑下するような感情である。
おそらく、ここまで説明すればどちらの方が不健康かは一目瞭然だろう。
罪悪感という感情はその後に埋め合わせようという行動が発生する。
『ドア・イン・ザ・フェイス』という交渉テクニックがあるが、このテクニックはまさに相手の罪悪感をうまく利用している。
たとえ失敗したり、よくない行動をしても、罪悪感を感じている間はまだ健康的だと言える。
なぜならその後に何かしら前向きな行動が伴うからだ。
その一方で、屈辱感という感情は、行動を止める力を持っている。
『私は何をやってもダメだ』という考えに陥り、その後に埋め合わせの行動は起きない。
つまり、その場で停滞してしまうことになる。
だから、罪悪感よりも屈辱感の方が危険なのだが、うつ病や対人恐怖に陥る人も含めて、多くの人が罪悪感を持つべき場面で屈辱感に陥る。
ただ、自分自身の行動や言動に問題があっただけなのに、自分自身に問題があったかのように考えてしまう。
『人として』問題があると思い込んでしまうわけだ。
しかし、実際は、そんな行動一つで人間の価値は変わらない。
たった一つの過ちでその人の価値がなくなるのであれば、もうすでに多くの人の価値はない。
それは世界中の億万長者や偉業を成し遂げてきた偉人たちも同じだ。
NYの映画業界を妨害しまくり、後にハリウッドができる原因となったエジソンが今でも『発明王』として尊敬されているのは、その愚行一つでは彼の価値が変わらなかった何よりの証拠だろう。
というように、もちろん恥ずべき行動や慎むべき行動はあるにしても、それはあくまで行動だけの話であって、その人自身に影響するものではない。
『罪悪感』と『屈辱感』を履き違えてはいけない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。