医学モデルに陥ると成長が止まる
医学モデルとは本来、障害を病気やその他の健康状態から生じた個人的な問題で、その人に引き起こされた特徴として捉える考え方である。
心理学では、人間というものを様々な角度から理解しようとする。
遺伝子的な観点や神経科学的観点、認知的観点や気質的観点、それから社会的観点など、様々な要素を統合して人間を理解しようという試みである。
その中で、当然ながら、人間というものについて様々な説明がなされてきたわけだが、医学モデルもその一つだ。
例えば、フロイトは『無意識』という概念を持ち出してきて行動の原因を説明しようとした。
アドラーは劣等感という感情を重要視していた。
また、マズローは『自己実現への欲求』が人を行動へと突き動かすと考えたわけだし、ベックやエリスは認知の重要性を述べている。
つまり、心理学では元々、人間の行動をその人間の内側から説明しようと試みていた。
その人の性格や意識の問題によって行動が決定されていると考えていたわけである。
そして、その考え方は今も蔓延している。
しかし、ジョン・ワトソンやソーンダイクの登場によって、初めて環境というものの影響に焦点が当てられ始めた。
行動主義では、人間の行動の原因をその人の性格や思考、意識に求めたりはしない。
環境から受けた刺激に対する反応でしかないというのが行動主義の主張である。
その全てが正しいとは思わないが、少なくともそちらの方が救われるように見えるのも確かだろう。
僕は数ヶ月前から塾講師のバイトをしているのだが、そこには小中学生が主に勉強している。
そこに1人『問題児』とされる小学生がいて、その子は普段からみんなの勉強に茶々を入れたり、大声で騒いだりするそうだ。
一般的にはその子の性格や勉強へのやる気の問題だと考えられがちだ。
『勉強にやる気がない』とか『自制心がない』というように。
しかし、僕が教えている時にも彼女はよくいるが、そんな風に騒いでいるのを見た事がない。
だらけている所はよく見るが、なんやかんやブツブツ言いながら素直にやっている印象である。
その塾の室長曰く、僕というまだよく知らない人がいるから静かなんだと言っていた。
よく知っている顔ばかりが集まっている時には安心してそのような行動が増えるようだ。
もし、従来の心理学のように、その子の行動を彼女の性格ややる気のせいにしようとするならば、その相手が誰であれ似た行動が見られるはずである。
しかし、実際はそうではない。
これを行動主義では『弁別刺激』という。
弁別刺激とは、ある先行刺激においては特定の行動が強化され、また別の先行刺激ではその行動が強化されないというものだ。
行動が強化される先行刺激とそうでないものは、過去の経験によってなんとなく決まってくる。
先行刺激とは、ある特定の行動を引き起こす刺激の事である。
行動主義では、人間の行動はある刺激に対する反応でしかないと考える。
つまり、受ける刺激によってその反応が変わるのは至極当然のことであろう。
例えば、塾の小学生の例で言うと、よく知った人間ばかりがいる安心できる環境か、僕というまだよく知らない人間がいるという安心できない環境のどちらかが先行刺激ととなり、騒ぐという行動を強化したりしなかったりする。
僕がいない時は安心して騒ぐという行動が強化される。
逆に僕がいる時には、騒いだらどうなるか分からない不安があるので騒ぐという行動は強化されない。
というように、先行する刺激によって反応を選んで変えているのだ。
なので、もし僕がその子にとって『騒いでも怒られない人間』だと認定されればその子はまた騒ぎ出すだろう。
僕があくまでその子にとって、騒ぐという行動を強化する存在にならない限り、少なくとも僕がいる時は静かにいてくれるだろうとおもう。
彼女だけではない。誰にでも弁別刺激はある。
例えば、青信号なら渡って赤信号なら止まるのも弁別刺激の例であるし、直属の上司にははっきりとものを言えるのに、たまにしか会わない上司には言えないのも弁別刺激が原因である。
『性格に裏表がある』とか『人によって態度が違う』と言われる人は断じて良い印象を受けない傾向にあるが、弁別刺激の観点から見ると当然なのかもしれない。
逆に、それを『裏表のある性格』とか『信頼できない人』などのようにその人個人の問題として捉える医学モデルに陥ると、救いようがないだろう。
医学モデルに陥ると成長が止まる。
最後まで読んで頂きありがとうございました。