物事を把握する時に生じた解釈(≒ひずみ)について考える
物事(事象)は情報として入力され、そこから自身の解釈を経て、あらゆる物事を把握しているとは思うのですが…解釈(≒歪み)により出現する機会損失についてを考察してみるnote
ちなみに歪みとは相手にとってというより、自分自身の価値観・認識という意味合いで使っております
ではよろしくお願いします✎
物事のインプット(入力)の流れ
まずは各物事(事象)から自身へのインプット(入力)はどのような流れが起こるかというと
と、物事(事象)を捉える時はこのような流れを組むのかなと思っています。
※ちなみに大前提として、知り得た情報というのは勝手に自身の知識にはなりません = 知り得た情報は“知識として自分自身に落としこむ為の過程が必須” です
その辺りはこちらのnoteで↓
どの辺りで歪みが生じやすくなるのか?
上記の基本的な流れの中で、どの辺りで解釈における歪みが生じやすいかというと、
の2パターンかなと思っています。
一見違いがありそうではあるけれど、実は1と2では辿る道順が少し違うだけで、到達する問題点に明確な違いはないですね。
1は脊髄反射的に感じたままを表現するので、思考的というよりは本能に近く、
一方の2は反射ではなく一度論理的には思考はしているものの、ファクトチェックが不十分、もしくはしていなかった為に自身のビリーフシステムだけを頼りにしてしまっているという事。
何が問題かというと『どちらも実は感覚的でしか捉えていない』という点です。
ビリーフシステムは自身の様々な事象の判断基準ではあるものの、完璧なものではなく曖昧なものであり、随時更新は必要になってくるものだからですね。
※こちらのnoteに多少まとめてあります↓
だからと言って、感覚で捉える事が悪いとは絶対思いませんし、感覚表現は人により様々な趣向を感じられる…とても興味深く好きな事ですらあります。
ですが、『感覚で全てを判断し表現してしまう』と、その時々で捉え方・出力の仕方に乖離が生じやすくなり、体調やメンタル状態等で更にブレて乖離が大きくなる…
その一定の範囲からの乖離幅こそが自身の通常状態時の認識との差異 ≒ 歪みとして保存されているんだろうなとは思っているんですよね。
歪みによる機会損失について
その時々の歪みも踏まえてその人のアイデンティティだ!と言われると全くその通りであり、否定する事も全然ないのですが、
何が引っかかるかというと、あくまでそれはその人の認識や価値観なのだけれど、その価値観(≒歪み)をあたかも世界の正解として叩きつけてくる事に違和感が生じるんですよね。
何とかコミュニケーションを図ろうとしても、共通認識が朧げであり、伝えたい事の疎通がさらに滞り、じゃあもうコミュニケーションを図らなくても良いやとなってしまう事で、大きな機会損失となるだろうなと思うんです。
もしかしたら自身の捉え方の別視点になり得るかもしれないし、今の捉え方が更に強化されるかもしれないのにと。
実際にどんな形が正しくて、どんな形なら誤っているのかの正解は無いものの、とりあえずファクトチェックを試みて、実際どのくらいの信用度なのかを確かめてみる必要性はそこなんだろなと思うのです。
信用度を図るには?
下記のような流れを参考にして頂けますと良いのではないでしょうか?
①で止まるようであれば、科学的根拠はありません。
②→⑤に進むにつれて、科学的根拠があり、情報の信頼度も増していきます。
この辺りをご参考になさってはいかがでしょうか?
まとめ
表現の自由はどの人にも平等に存在するので、解釈の違いについて良き悪きだのとジャッジする氣は1ミリも無いのですが、
その価値観(≒歪み)をあたかもこの世界の正解として他人に叩きつけてくる事には全力で違和感があるんですよね。
自身がそうならない為にも日々思考し、適度にファクトチェックを挟んで物事を俯瞰できたらなと思います。
今回こちらのnoteをお読み頂きありがとうございました!
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