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10万円持っていたのに1万円を無くしたらどうします?
この記事では2025年2月23日(日)に行われた十日町教会の日曜礼拝における聖書に基づくメッセージを掲載しています。お読みいただき、内容に共感していただけたらハートマークを押していただけると励みになりますのでよろしくお願いいたします。
聖書:ルカによる福音書15章8~10節
メッセージ:
本日は先々週のイエスのたとえ話の続きです。先週は雪掘りキャンプがありましたので説教は新潟教会の長倉望牧師にしていただきました。振り返ると先週は雪掘りキャンプ日和で天候に恵まれて参加者は気持ち良い汗を流しながら雪掘りに励まれたわけですが、キャンプが終わってから再び豪雪地帯の本領を発揮して火曜日から雪が降り続けました。
雪まつりが終わると越後妻有は春に向かうと言いますが、まさかの居座り寒波再来に皆さん本当にくたびれているかと思います。私も今朝は結構積もっていたので朝6時からみっちり1時間半、スノーダンプで除雪をしました。でも今日ふと思ったのは朝6時の空の明るさです。前回の居座り寒波の際にはまだ真っ暗でしたが、今朝ふと空が明るなと思い着実に春が近づいていることを感じました。
皆さん、この寒波を乗り越えればうれしいうれしい春です。去年の春、皆さんに一冬越した後の春の喜びはひとしおですよと言われましたがその通りだろうなと思います。厳しい冬を味わったからこそ感じることのできる春の喜びを目指して、神さまに癒しや励ましをいただきつつ1日1日を過ごして参りましょう。今日イエスさまの語られたたとえも本当に私たちに良い知らせを与えてくださっています。
見失った羊のたとえの次にイエスは無くした(直訳:失った)銀貨のたとえを語ります。羊でピンと来ない人に対して今度は貨幣でたとえ話を語るのです。これならその通りだと思わない人はいないでしょう。仮に10万円を持っていて1万円を無くしたと想像してみてください。9万円あるし1万円くらいは無くしてもいいかとはなりませんよね。ドラクメ銀貨を10枚持っていた女のように無くした1枚のために灯をつけ、家を掃き、何度も何度も行ったり来たりを繰り返して無くした1枚が見つける諦めずことなく部屋の隅々まで念入りに捜すでしょう。
そもそも見失った羊のたとえで言及されていた羊は牧羊を生業とする人々にとって大切な財産であり、私たちにとっての貨幣と同様の価値を持っていました。ユダヤ教もキリスト教もアブラハムという人物を先祖としている宗教です。アブラハムは羊を含む様々な家畜を飼う遊牧民族として旧約聖書に登場します。羊は部族間の物々交換の際に用いることのできる価値高い生き物であることは、羊飼いアブラハムを先祖に持っていると自覚しているユダヤ教徒、ユダヤ人にとってはいわずもがなの常識でした。しかしイエスが生きていた時代、ユダヤ人、ユダヤ教徒の中でも特に貴族や祭司、ファリサイ派、律法学者と呼ばれるいわゆる上流階級に属する人々は都市暮らしをしていました。街中で食べ物や日用品を購入するためにいちいち羊や牛を引いて回るのは大変ですから、都市での暮らしにおいて重宝されるのは羊や牛ではなく貨幣でした。イエスはいま都市において貨幣経済に取り囲まれて生きる人々にも分かるように無くした銀貨のたとえを語るのです。
現代の私たちも同様ですが、貨幣経済の中で暮らしているとあたかも貨幣そのものに価値があるかのように錯覚をしてしまいます。でも、でもですよ(財布から1万円を取り出して見せる)。これはただの紙切れです。これ自体には何の価値もありません。1万円と1万円で購入できるスノーダンプや羊の肉とで比べたら、断然価値のあるのはスノーダンプや羊肉です。もしもいま日本を巻き込む戦争が勃発したら、あるいは大地震が起きて日本経済が大打撃を受ける事態が発生したら、インフレが起きて1万円も、いや100万円ですら紙切れ同然の価値しか無くなって、私たちはこれ(1万円札)をちり紙として用いているかもしれません。
皆さんはスリランカという国が知っていますか。2022年に財政破綻をし、デフォルト(債務不履行)に陥りました。当時現地に住んでいた日本人が書かれたこういう内容の文章を読んだことがあります。「ガソリンや車、電化製品といった輸入品だけでなく国内のありとあらゆる物が1日毎、いや午前と午後で値段がどんどん上がって、倍の値段、倍々の値段となっていく。不安で仕方がない。」日本も物価高で目下ではお米の値段をはじめ様々な物の値段が上がっている状況ですから皆さんの想像に易いかと思います。イエスは今日、無くした銀貨のたとえを通して貨幣経済という私たちが何も疑うことなく受け入れている常識について立ち止まり、考える、そして問うてみる機会を私たちに与えてくださっています。
今日の直前に語られたたとえで1匹の羊を見失ったのなら99匹を荒れ野に残してでも1匹が見つかるまで捜し歩かないだろうかと問いかけるイエスに対して私たちはこういう思いを持ちます。「いやそんなこと言っても1匹を捜しに行っている間に荒れ野に残した99匹が野獣に襲われてしまったらどうするんですか。1匹くらいはしょうがないでしょ。むしろ残った99匹に心を向けて、失ったのが1匹で良かったと思うことにしませんか。」イエスは羊が貨幣経済の外で生きる人々にとって大切な財産であることが想像できない私たちに向かっていま、失った銀貨のたとえを語ります。先ほども言いましたが、私たちは10万円持っていて1万円を無くした時、まだ9万円もあるしまあいいかとは思いませんし、これは100万円持っていても同じでしょう。貨幣で考えると分かる当たり前のことが羊になると分からなくなるほどに私たちは貨幣経済という枠組みの中で生きています。
皆さんは柄谷行人さんという方をご存知でしょうか。日本を代表する思想家、哲学者のお一人で、カトリックの信者さんでもあります。1941年生まれ、御年84歳の柄谷さんは2022年に柄谷哲学の集大成とも言える『力と交換様式』という本を上梓され、この本で「哲学のノーベル賞」と言われるバーグルエン賞を日本人・アジア人として初めて受賞しました。
賞金はなんと100万ドルです。すごいですね。柄谷さんは著書の中で「交換様式論」と呼ばれる思想を展開しています。人類の歴史を交換様式というレンズで眺めた時に非常に鮮明にかつ正しく外観できるという思想です。柄谷さんの「交換様式論」には交換様式 A,B,C,Dが登場します。1、2、3、4や甲乙丙丁と同じです。
交換様式Aは人類史上もっとも早い段階に登場した「互酬交換」、すなわち贈与と返礼のことです。現代も私たちはお中元やお歳暮を送り合っていますのでこれについての説明は特にいらないと思います。誰かから何かをいただいたらお返しをする。これを人類は遥か昔から行っていたというわけです。続いて登場するのは交換様式Bです。それは「服従と保護」すなわち「略取と再分配」の交換様式です。戦国時代を思い起こしてみてください。領民は領主であるお殿様に絶対服従ですが、その代わりに他国の人々から護ってもらえます。またお隣の領土に攻め込んで戦に勝てば、負けた側から土地やお米、金銀財宝その他価値のあるものを略取し、それらを恩賞として再分配してもらえます。
続いて言及される交換様式Cは「商品交換」です。ここで貨幣が登場します(もっとも交換様式BとCは時代順ではなくほぼ同時期に登場します)。貨幣と商品の交換とはつまり、私たちがいま当たり前のものとして享受している貨幣経済のことです。貨幣経済が成立するために必要不可欠なものは「信用」です。本来なら何の価値もないこの紙切れが1万円という価値を持ち、1万円分の商品と交換することができるのは売る人、買う人双方の間に意識するしないにかかわらず「信用」が存在するからです。ではその「信用」を担保するのはいったい何者でしょうか。それが国家です。国家が正常に機能しているからこそ貨幣に「信用」という力が付与され、商品と交換することができます。だからこそ先ほどデフォルト(債務不履行)に陥ったスリランカの話をしましたが、国家が正常に機能しなくなると国家が発行する貨幣に「信用」という力が付与されなくなり、途端に貨幣が紙切れに変わるのです。貨幣経済は便利に見えますがそういう落とし穴があるということを私たちはよくよく理解しておく必要があると思います。まだまだ柄谷哲学は刺激的で、著書では普遍的な真理に迫る最後の結論として交換様式Dが登場するのですが、本日の説教ではこのくらいにしてあとは貸出コーナーの本を置いておくので是非とも手に取って読んでいただきたいと思います。読んでいただけるときっとワクワクが止まらなくなると思います。
聖書に戻りましょう。イエスは羊のたとえがピンと来ない、貨幣経済を前提として何の疑いもなく暮らしている私たちに向かって無くした銀貨のたとえを語ってくださいました。ドラクメ銀貨を10枚持っている人がその1枚を無くしたら灯りをつけ、家中を掃除して見つかるまで念入りに捜すのと同じように私たちも10万円、100万円持っているのに1万円を無くしたらくまなく捜すでしょう。イエスは見失った羊と無くした銀貨という2つのたとえを用いながら、結論部でこのように語ります。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」あるいは羊のたとえでは「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてより大きな喜びが天にある。」とも語っています。
イエスは羊に財産としての価値を見出している牧畜に生きる人に対して、あるいは貨幣に財産としての価値を見出している都市部で生きる人に対して、一人の人間が悔い改める喜びとは羊や貨幣くらい大きな喜びであると語ります。イエスはたった一人の罪人のために全身全霊を注ぐ生き方をまっとうされました。私たちが待ち侘びている天の国、神の国とはそのような生き方が良しとされ、みんなから批判されるのではなくみんなが一緒に喜んでくれる関係の中に現れるのだとルカによる福音書のイエスは言っています。
私が言っていることがちゃんと聖書に書いてあるか、確認しましょうか。ルカによる福音書17章20~21節のイエスの言葉をみんなで読んでみましょう。新約聖書の143ページです。開ける方はお開きください。それでは一緒に読みましょう。
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
神の国はいつ来るのかと「時」を聞かれたイエスは「時」については語らず、神の国は見える形では来ず「あなたがたの間にある」と言われました。「あなたがたの間」ということは私たちの関係の中に神の国が現れるということです。では私たちがどのような関係を築いている時に神の国が現れるのかを考えると、イエスのたとえにその答えがあるでしょう。すなわち見失った羊のため、無くした銀貨のために全力を尽くす人と、その人が探し物を見つかった時に一緒に喜び合う人々との関係の中に神の国が立ち現れるということです。
最後に、「罪人」という語が気になった方がいると思うので補足しておきます。日本語で「罪人」と聞くと犯罪者を連想します。最近ですと特殊詐欺グループのニュースを耳にする機会が多いのでああいう人たちを思い浮かべるわけですが、イエスが生きていた時代に「罪人」と呼ばれていた人たちは私たちが想像する犯罪者とは異なります。ルカによる福音書15章1節以下をご覧ください。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言い出した。そこで、イエスは次のたとえを話された。」イエスがたとえを語った文脈がきちんと説明されています。この時代に「罪人」という括りにまとめられた人はたとえばここに出てくる徴税人です。彼らはローマに変わって人々から税金を徴収する仕事に就いており、それはみんなから尊敬される職業ではなく嫌われる職業でした。
あるいはこの時代は病気や障がいを負うとそれはその人が神に対して罪を犯したからその罰として懲らしめられていると理解され、病人や障がい者も「罪人」とされました。また当時のユダヤ人が非常に重視した安息日律法と呼ばれる、「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」というルールを守ることのできない仕事についていた人々、例えば牧畜を営む人たちも「罪人」とされました。この時代の「罪人」とは、宗教指導者や権力者から一方的に押し付けられた称号だったわけです。イエスは不当にも「罪人」という枠に押し込められた人々を解放するため、「罪人」を救うためにこの世に来られて働かれました(テモテての手紙一 1章15節)。イエスの言う「一人の罪人が悔い改める喜び」とは、宗教指導者や権力者たちに「罪人」と呼ばれ、自分には価値がないと思い込まされている人たちに自分の価値を気づかせる喜びです。神は見失った1匹の羊が見つかるまで捜し求める羊飼いのように、あるいは失った1枚の銀貨のために家中をくまなく捜す女性のように、人々から「罪人」と呼ばれ、社会から疎外されている一人を捜してくださるお方です。それほどまでに私たち一人ひとりには「価値」があるということをイエスさまは2つのたとえを用いて教えてくださり、一人が自分の価値に気づいて救われる喜びを一緒に喜び合う神の国へと私たちを今日、招いてくださっています。
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