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科学教育における哲学の重要性

https://aeon.co/ideas/why-philosophy-is-so-important-in-science-education

originally written by Subrena E Smith


前期後期に分けて、私はニューハンプシャー大学で科学哲学という講義を受け持っている。受講者の多くは教養科目分野の単位を稼ぐために出席しており、今まで哲学の講義など履修したことのない学生がほとんどだ。

各学期の最初の授業で、私は科学を哲学するとはどういうことなのか簡単に概要を説明することにしている。哲学とは事実だけでは解決に至らない問題を取り扱う学問であり、科学哲学はその哲学的手法を科学分野に応用する学問であるということを初めに触れる。その後、講義全体を通して根幹を成す概念について解説を行う。それは帰納法、根拠、科学的手法の3つだ。科学は帰納法に基づいて研究が進められる。過去の観察により得た結果から観測されていない普遍性の持つ結論を導き出す手法だが、哲学者から言わせれば帰納法は証明方法として不十分であり、科学研究において課題となっている。次にそれぞれどの根拠がどの仮説を支持するのか結論づける難しさと、研究を行う上で因果関係を正しく結びつけることが不可欠な理由を話す。そしてこうした”科学的手法”は単純明快でもなければひとつに決まっているわけではなく、科学的方法論とはどのようなものを指すのかという根本的な論争も起こっているということを学生たちに伝えている。そして最後に、以上の問題は”哲学的”ではあるが、それでも科学のあり方にとってとても重要であることを強調して最初の講義を締めくくるのだ。

この時点でよくこのような質問をされる。「先生の専門分野はなんなんですか」「どこの大学に通っていたんですか」「先生は科学者なんですか」

きっとこうした質問をされるのは、私がジャマイカ系女性哲学者という学生たちにとって馴染みのない経歴を持ち合わせており、彼らの興味を惹いたのだろう。ただそれ以上に他の理由があるように思う。というのも、もっと教授らしい見た目をした教授が行っていた科学哲学の講義でも同じような状況に出くわしたことがあるからだ。コーネル大学に院生として在学していた際、人間の本質と進化に関する講義のお手伝いをさせていただいていた。その講義を担当していた教授の外見が私とまったくもって異なっていた。肌は白く、髭を蓄えた、60代の男性──まさに学術の権威のような見た目だった。それでも生徒たちは教授の科学に対する知見に懐疑的だった。納得のいかない様子で「教授は科学者ではないでしょう」というのだ。

このような反応がされるのは科学の重要性に対して哲学の重要性が明確でないことが関連していると思う。私の受け持つ生徒の中に、哲学者は科学に関して言及できるほど社会に貢献しているのか疑問に思っている人がいてもなんらおかしくない。著名な科学者たちが哲学は時代遅れだとか価値がないとまでは言わないが、科学ではないと公に明言していることを知っているのだ。STEM(科学、技術、工学、数学などの理系科目)は人文科目よりも圧倒的に多くの恩恵をもたらすと考えているのだ。

私の講義に出席している若い学生の多くが、哲学とは曖昧な学問で、考え方の違いを取り扱っているだけではないかと、一方で科学とは新たな事実を発見し、実証を繰り返し、客観的な真実を広めるための学問であると考えている。さらに言えば、科学者は哲学的問題にも回答できるが、哲学者は科学的問題に首を突っ込むほど精通していないだろうと彼ら学生は考えているのだ。

なぜ学生たちはこんなにも哲学を科学とはまったく異なるものだと断定し科学にこだわるのだろうか。私の経験上、理由は4つに分類される。

ひとつに歴史に対する認識の欠如があげられる。大学生たちは科目分野の分類方法をそっくりそのまま実世界での分類と同一視する傾向にあり、つまりその他分野含め、科学と哲学が絶えず変動する人的創造物であると理解できないのだ。今となっては『科学』と名付けられている科目でも、前までは異なる分野に振り分けられていた。科学分野として揺るぎない物理学も、以前は『自然科学』と称されていた。音楽もかつては数学の分野に属していた。扱われていた時代や場所、そして文化背景によって、科学の及ぶ範囲は狭まることもあれば、拡大されることもあったのだ。

次に具体性が関係している。科学は物質世界を取り扱う学問だ。

我々は科学によって技術を手に入れた。目で見て、触れて、扱うことのできる形で手にしたのだ。ワクチンや遺伝子組み換え作物、痛み止めなどが科学技術によってもたらされた。学生からすれば、哲学は具体的な成果物がないように思えるのだろう。しかし、実際には、哲学によってもたらされた成果物というのは多岐にわたる。アインシュタインの哲学的思考実験がカッシーニによる木星調査を可能にした。アリストテレスの三段論法はコンピュータ科学の基礎となっており、スマートフォンやパソコンが使えるのはそのおかげだ。そして心身に関する哲学者たちの取り組みが神経生理学の原型となっており、のちに脳撮像技術が発明された。哲学は表舞台に立つ科学を支える縁の下の力持ちなのだ。

3つ目は真実、客観性と思い込みによるものだ。科学は完全に事実のみで構成されていると学生たちは考えており、これに異を唱える者がいれば見当違いだと決めつける。思い込みだけを頼りに研究している人がいれば、合理的とは言えないだろう。その研究者は空論的だ。しかし、我々はみな思い込みを抱えていて、創造的な研究にはそうした思い込みが必要となってくる。この問題を解決するには一筋縄ではいかない。というのも科学に対する一般的な印象と客観性という単純素朴な概念との間にある結びつきがとても強いからだ。理解を推し進めるために、学生たちへ前提知識がない体で近くにあるものの中からひとつに注目するよう呼びかける。そして、今見つめているものが何なのか説明するように促すのだ。彼らはふと考えて……気づく。前提知識がないと目の前にあるものを説明できないことを。このことに気が付けば、科学における客観性に疑問を抱くことがなんら不思議ではなくなるだろう。

科学教育に対する先入観が4つ目の理由だ。科学とは主に実存するもの──事実──を解明していく作業であると、科学教育というのはそうした事実が何たるかを教えるものだと学生たちは考えているように見受けられる。彼らの期待に応えることはできない。哲学者として私が主に研究しているのは、事実がどのように選択され、どのように結論が導き出されるのか、事実の中でも重要度が異なる理由、事実が推論へと組み込まれていく過程といったものである。  こうした研究に対して学生たちからは我慢できない様子で「事実は事実以外のなにものでもないですよね」といった反論よく返される。しかしそんなことは百も承知だ。彼らが言っていることはつまり、いちど手にした”事実“には解釈の余地も反論の余地も存在しないということである。

なぜそんな具合に考えるのだろうか。科学そのもののあり方ではなく、一般的な科学教育に原因がある。科学に関する見識を深めるためにはまずおびただしい数の事実や工程に精通する必要があるが、授業ですべて扱おうとするととてもじゃないが時間が足りない。そこで科学者たちは急速に発展していく実証的知識に要点を絞ったカリキュラムを組むしか他になく、当の本人たちも対処法を知らないであろう科学の哲学的問題に時間を割く余裕がなかったのだ。その結果、哲学的思考が科学理論や研究と密接な関係性を持っていることを知らないまま、学生たちは卒業していってしまうのだ。

しかし現状に甘んじる必要はない。適切な教育綱領が施行されれば、私のような哲学者がわざわざ逆風に晒されながらも学生たちに科学における哲学の重要性を説くこともなくなるだろう。これを実現するためには、科学に関する情報源として唯一信頼された存在である科学者たちの援助が必要だ。この際線引きをはっきりとさせるのはどうだろうか。今まで通り科学の基礎を教えていく中で、学生たちに哲学のもつ役割を明確に説明して欲しい。科学には、哲学者たちが解決を試みる概念的で解釈主義的、方法論的、倫理的な問題が多く残っており、無縁にも思えるかもしれないが、哲学問題は科学の核心部に存在しているのだと。


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