旅の空の下での新規開拓。初めての場所で突然の発言の先にあったものとは?
「畳の焼け焦げ修理」という珍しい技術系仕事の珍道中のお話
畳のタバコによる焼け焦げの話から始まりますが、「何それ?」だと思いますので説明させていただこうと思います。
最初からですが、畳というものは燃えるものです。い草から出来ていますよね。皆さんご存じのことと思います。
これからお話するのは、ずいぶん昔のこと。私がまだ20代で、今の仕事をしていなかった頃のこと。いろいろなことにチャレンジしながら自分を探して旅をしていた頃のお話です。
そしてこれは畳にタバコを落としたり、灰皿から落ちて焼け焦げになったりという風景がまだ当たり前にあった頃の日本でのお話です。
タバコによる焦げ跡をその場で修理するという方法特許を使った修復技術というものがあります。その方法特許を考え生みだしたのが私の父親でした。
父親は様々な事業をしていましたが、とあるその頃には、畳の焼け焦げ修理の技術講習をしたり、東京や地方でも技術指導や講演をしたり等していましたが、料亭や旅館の部屋や宴会場のたくさんある畳の焼け焦げを修理する現場にも直接出向いていました。子供の頃に時々仕事の現場に一緒について行って、父が畳に寝そべって畳の目に向い、その場でみるみるうちに修理していくその手元をよく見ていました。魔法みたいだなと思ったものです。
しかし父は難病を患い、心臓発作を常に起こす可能性が高くなって、自由に動くことが段々と出来なくなり、遠方への出張も諦めざるをえない状態になっていきました。私が20代になった頃には、ほとんど家に居るという状態で、変なものですがほとんど家に帰っても来なかったような父と、この闘病の時期がそれまでよりも長い時間初めて一緒に居るという時間になるのでした。
畳の修理技術をいつの間にか見て覚えてしまっていた私は、父から具体的には修理法を教えてもらってはいませんでした。父も、この仕事の後を継いで欲しいとはまるで思ってはいませんでした。
そうだ! 旅に出よう!
ある時、私は自分の腕を試してみたいと考えました。ちょうど私と同じように決まった仕事をして拘束されていなかった友人が居たので、車で知らない街に「一緒に旅に出ない?」と軽く誘ったのです。彼女は二つ返事でした。私は父の許可を得て、早速その技術の簡単な最初の手順の所を教えました。
父に話をしたところ、この地方のここあたりに行くといいんじゃないか、ということを日本地図を広げていくつかの地方の情報をざっくりと教えてくれました。日本中を旅していた人だったのでよく各地方の特徴を知っていました。「旅して困っておいで。」「勉強ってそういうものだ」と言っていました。
営業をかける場所についてですが、これはもう行ってみなければわかりません。それ以上の情報はくれませんから、自分で選んでみた土地の温泉街の実際現地に入って自分で営業をしてみないと何もわからないのです。今のようにインターネットはまだ盛んではありませんでしたから、手に入る情報は限られていました。
その仕事のどこがいいの? 何を売るの?
なぜ私はそんな仕事をしたかったのでしょうか?
それはどうしてなのでしょうか?
答えはシンプルです。
それは「形に無いものを売る」という仕事、ということだからです。
私が興味を持ったのは、実はこの部分でした。
「形に無いものを売る」ということ自体に、心ワクワクしてしまったのを今でもハッキリと覚えています。そんな売れそうに無いものを売るだなんて、普通に考えると大変そうに思えるかと思うのです。ですが、私は商品としてはカタチも無い、さらにその場で生み出して納品するというのでは無く、むしろあったもの(焼け焦げ)をその場で消してしまうという仕事をいかに売るのか、それを考えること自体が楽しいと思えたのです。そこに大きな価値を感じていました。消して綺麗にしてしまうという技術の魅力をどう伝えることができるのかを考えていました。
アポを取って営業に行くという部類の仕事では無い、違った営業が必要な種類の仕事でした。畳の焼け焦げがその場で修理できて跡も無く消えますよと言っても、イメージが相手に伝わらないために何を売っているのかが伝わりません。ましてやお客様を迎えては送り出すということを一日の中で繰り返している仕事の現場ですから、とても忙しいサイクルで稼働している現場です。どの方も多忙ですから電話をするとその場で断られてしまう確率がとても高く、そうすると実際にその後に伺いにくくなるとか会ってはもらえないということに繋がるので、現地に直接行ってこれはと思ったところに飛び込んで、自分の持っている商品について説明する必要があるのがこの仕事でした。
私が売る必要のある商品とは、形には無い「畳の焼け焦げ修理」の技術とそこにあったものが「その場で消えてしまう」という仕事なのでした。誰もがそのような技術がこの世に存在することなどまだ一部の人しか知らない時代の話です。「多くの人が知らないというものを売る」というところに喜びさえ感じてしまう私がいました。
具体的には何をするの? その場で消える仕事?
具体的には「畳の焦げ跡の修理」というのは、形に無い修理という技術で、お客様の所にある畳の焼け焦げの黒くなってしまった部分を、畳自体を回収すること無く、その場で小さなものなら5~10分程度で修理して焼け焦げの黒い焦げ跡を消してしまいます。修理の過程を見ていなかった場合には、どこに焼け焦げがあったのかもわからなくなるような技術です。
「その場で消えます!」 というのがキャッチフレーズでもありました。
畳の焼け焦げ、その悩みは尽きない
当時は蚊取り線香の跡という事例も少なくなくて、畳にぐるっと黒い焼け跡で渦巻きが出来ているというものもありました。また宴会場ではお料理の鍋や焼き物に固形燃料を使いますからその火が飛んだりして畳に飛沫状の焼け焦げが発生することもありました。一番多いのはタバコです。酔っ払ってタバコを吸う方はよく落とすのです。気が付いて拾うまでにも時間があって、タバコの形一本分に近いサイズでの焼け焦げもよく目にしました。寝たばこも焼け焦げを作っていましたので、各客室にも焼け焦げは多くありました。一枚の畳の中にそういった焦げがぽつぽつと毎日増えていくのが料亭や旅館の畳でした。
当時、新しい畳を焦げた部分を四角く切り取ってそこに四角く切り取った畳の生地を無理矢理はめ込み、そういった切り貼り方法で修理している業者も存在していましたが、それでは一本一本畳のい草の太さというのは違っているので、いかにも切って貼ったよという風にになってしまい、見るも無惨な畳のパッチワーク状態となって本来の畳の風情や雰囲気は台無しになってしまいます。また似たようなやり方ではあるけれども実際は修理した跡がことごとく残ってしまって雑草が生えてるのかと思わせるような修理の仕方も存在していました。これでは座る方々がゆっくりくつろげるというものにはなりません。毎日増え続ける焼け焦げ、店が繁盛すればするほど焼け焦げもまた増える、という流の中にあって、どのお店にとっても悩みどころだったのです。自宅の畳でこれほどまでに焼け焦げが存在しているという状況もなかなか無いですから、それは印象がとてもよくありません。放置しておくと畳の表のい草が焼け焦げからはじまって、やがてどんどん剥離してしまい中にある畳にとっての内蔵である糸が丸見えになってしまいます。その糸はその上を人が歩くことでやがて切れてしまい、畳が本来の使命を果たすことが出来ずに崩壊していき始めます。自宅よりも印象のよくない場所になってしまっては、飲食サービス業は成り立ちません。
また別の業者は畳の目の写真をシールにして、焼け焦げのある畳表の部分にぺたっと貼るというやり方をしていました。これもシールは紙製品なので、貼った端っこから徐々にはがれてくるのはすぐのことなのです。畳の上は人が歩くところなので、踏まれるほどにやがてシールは途中までめくれて、裏側のノリ部分の真っ白い部分が出てしまっていました。それは目立つだけでは無く、その上を人が歩いた時にはぺたっとくっつく感触が付いてまわるのです。ノリ部分が暑くなると溶け出して畳自体がベタついてしまうということもありました。今考えると嘘のようなお話かもしれませんが、旅館からの要望もあり、様々な業者がどうにか出来ないかを考えている時代だったのです。
業界的には新しい手法による改革の提案だった!
しかし私たちの方法、やり方は違いました。
「その場で消えます!」がキャッチフレーズなのです。
どんと胸を張っているような発言ですが、しかしこれは父の開発した技術です。(笑)
それとと同時に畳は使っていた面を裏返して使う張り替えということもして使っていたものでした。ですから、簡単には捨てませんし新しくはしません。裏返すと日に焼けていない面が出ることになりますから、そこにまた新しい青畳が現れるのです。
この点にも私たちはある程度対応していて、畳の張り替えの際には小さなとあるサイズまでのものならそのままでも焼け焦げがあったことはわかりませんし、わかるような状態の飛び出しているい草は引っ張って簡単に抜くことが可能でした。畳を長く使うことが出来るという点でも、様々なものをリサイクルしていこうという視点が重要になり始めていた時代だったので、畳を特別な材料を使うこと無く技術だけで修理して、長く使うという新しい提案ともなりました。大きな焼け焦げの場合にはひっくり返した後は再修理する方が技術料が高くなってしまうので、新品の畳表に変えていただいていました。畳屋さんとも共存していくということも大切に考えたい事の一つでした。
当時は、料亭や旅館の皆さんが、何かいい方法は無いか?と困っていることがとても多くありました。畳の表を焼け焦げが出来ただけで張り替えると、それは何百枚と常に張り替えなくてはならなくなり、その数は膨大なため費用がとても高くかかるからです。予算の都合によって新しい畳表にしょっちゅう変えるというわけにもいかず、泣く泣くそこを諦めてお客様を迎えるということも多くあるのだというお話もたくさん伺いました。とは言え、本当は綺麗な状態の畳で毎回お客様をお迎えしたいというのが、迎え入れる側のお店の多くの経営者の方や担当者の方のお気持ちでした。実際いらっしゃるお客様からの美観を損ねているのにほったらかしなのかという苦情が入ることも時々起きていたので、そういう場合には部屋の畳の一枚だけが全く違う色の畳になってしまうことはどうしようもありませんでした。どうにも一番よい方法が見つからない中で、毎日頭を悩ませることだったのです。
無謀な新人のチャレンジの旅先。「長野県のとある温泉街」に突入!
その時には、旅先に長野県のとある場所を私は選びました。軽四に修理道具や材料の畳表を積んで、北陸から二人で向ったのです。泊まるところは大きな温泉の近くにある安いログハウスをネットで探して素泊まり2泊分を借りておきました。行く当ては全くありません。
それでもお気楽な女2人旅の道中は楽しいものでした。稼ぐとか会社のためになんていうことは考えておらず、とにかく私にとっては冒険だったのです。
到着後にさてと、営業をかけようと思いますが、いざ門構えの大きな建物を前にしてさすがに怖じ気づきます。小さくて入りやすそうな旅館に行っては声をかけますがちょうど社長がいない、女将がいない、担当者がいないという返事が何件も続いて返ってきます。会うまでがまず大変です。
さて次はどこだ?と思いますが、なぜか徐行運転している車のブレーキを踏むことが出来ずに通り過ぎてしまい、ため息ばかりが出ます。ふうっ。同行している友人はお気楽です。半ば旅行なのですから。
また担当者はいないって言われるかも。またダメかもしれない。
そんなことが頭の中をよぎり始めます。否定的なことが頭の中に溢れ始めてしまうと、行動が出来なくなっていきます。身体が動かなくなっていくのです。車の中でああでもないこうでもないと言うばかりで、こうダメかもそうダメかもと言い出している自分に気が付きました。
これでは本当にダメだろう…。
そんな時にハッと私は思い出します。自分が「難しいもの」だとわかっていたものを、敢えて売ろうとしていたのだということをです。多くの人がまだその価値を知らない、けれど知ったならきっと喜ばれるだろう、その技術の存在を知らせて歩かねばならないということをです。
全く新しい視点に立つ。いざいざ行くぞ?
あぁ、そうじゃなくて、と私は仕切り直しました。会ってくれるとか会ってくれないとか考えるのをやめよう、そう思ったのです。新しさを持ち込もうとしているのだから、説明を聞いてくれなくても相手にされなくても当然だ! むしろ喜べ! そこでさらにどう良さを教えてあげられるかが重要なんだ! 簡単じゃ無いのも当たり前だ! お客様がそれを手にすることが出来たならどれだけ助かるかとメリットを、わかるようにお話して伝えることが肝心なんだ!
その上でまずは騒ごう!と思ってすぐに行動に起こしました。
「仕事の匂いがするところはどこですかー?」
「どこー? 畳の焦げ跡修理しまーす!」
「お役に立ちまーす!どちらですかー?どこですかー?」
まずは、車の中で大きな声で何度もいろいろな言い方で、口に出して探していますよ、求めていますよ、ということを表現しました。声に出している内にだんだんと楽しくなり始めたりして、笑いも出るようになりました。そもそも私たちは冒険者であって挑戦者であって、しなくてはいけないことを無理矢理しようとしている、そんな立場には無いのです。
そうして車をゆっくりと走らせました。道すがらいろいろな料亭や旅館の前を通り過ぎながら、「仕事の匂いはー!どこですかー?」と声を出しながら、誰かに聞きながら各旅館の玄関口を私は視界に入れて見ていくということをしていきます。
とあるところを通過し始めた時、考えてもいないところで私の身体の方が先に動いていました。大きな看板と玄関を見てそのままその旅館の敷地内にスッとハンドルを切って入っていきました。友人は驚いています。そして車を止めに正面玄関前にある駐車場へと入りました。友人は?という感じでいましたし、私も説明が出来ません。「仕事の匂い?」と聞かれても、私にはそれはわかりません。ですが、その旅館の敷地に入ってしまったのです。ダメ元で声かけていこう、また一件ずつ営業していこう!そう思ったのでそれを友人に話しながら車を降りて準備し始めました。もうすでにお客様は帰った時間帯です。旅館は掃除と次のお客様の準備に入る時間帯でした。
なぜかしらここで私は止まってしまったのだから、車も駐めてしまったのだからと「よっしゃ!」と道具一式と名刺を持って友人を連れて旅館へと入っていきました。
最初にフロントがあります。カウンターの中に2人ほどの従業員の方がいました。私たちが入っていくとその1人の方と目が合いました。
私たちの格好から、そして伺った時間帯から、当日の宿泊者では無いことは明らかでした。
うっかり飛び出した言葉! 自分が驚く!
カウンターの前まで進んで「こんにちは」と声をかけます。その後に続く言葉を考えていません。あっ、どうしよう、そう思いながら、カウンターの中の人が「はい、何か?」と返事をしたので、とっさに何か言わなくちゃ!と私はなりました。いつものような商品説明の始まりからの営業トークをと頭は思っているのですが、なぜかその時にはそうはいきませんでした。違うことが口からこぼれるように飛び出してしまったのです。後で友人に聞いたところによると、私はとても冷静に当たり前風な感じで言っていたそうです。
「えー、畳の焼け焦げ修理の者ですが、そろそろどうですか?」
「えっ? そろそろ?」 (友人のこころの声)
「そろそろって…それは…無いわぁ…」 (私のこころの声)
友人も、そう言った私自身も、自分の放った言葉に驚いて、その後の言葉が出なくなってしまいました。わぁっ、とっても恥ずかしい!そう思いました。一体何それ? どういうこと? 何の話? そう言われちゃう! わっ、どうしよう! ちゃんと説明しろよ自分! ほら早く!
瞬時にそう思いました。ああマズい、やっちゃったよ、みたいな感じです。
するとその従業員さんは顔色一つ変えること無く、頷いて言いました。
「はい。しばらくお待ちください。」
ええっ?
そう言って、何かを不思議がることも無く事務所の中へと入っていったのです。どのくらい経過したでしょうか。意味がわからずに2人で一体どういうこと? と思っていたのです。おそらく2~3分ほどしてだと思います。事務所の奥から出てきた年配の男性は、私たちを見てすぐに口を開いて言いました。
「おう、そろそろだとちょうど思ってたのよ。遅かったね。」
一体何がどういうこと?
「おう、そろそろだとちょうど思ってたのよ。遅かったね。だけど新入りさん? 顔が違う人たちだね。」
そのひと言は、すでに畳の焼け焦げ修理をしたことがある、どなたかが入っていたということを示していました。お話を聞かせていただくと、それは私の父が行った東京での講習に参加した人が自分で会社を立ちあげ、その温泉場や近隣に営業に来て、その旅館にも何度も来て修理していたとのことですが、身体を悪くしたのかどうしたのか、ここ1年くらい顔も出さないし連絡も無いんだということだったのです。どうしたのかなと思っていたところに私たちがやって来たので、待ってたよということだったんだよということだったのです。私たちはその会社のものでは無いということをお話しさせていただきました。
ですが、私たちはそのまま「丁度よかったよ。頼むよ。」と言われて宴会場に通され、
「じゃ、全館見積もりお願い。」
そう言われたのでした。
ドキドキしながら宴会場と客室の見積もりをして、金額にビックリしながら見積書を書き起こし、すぐに提出に行きます。するとその年配の担当者の方が続けて言います。
「はい。わかりました。すぐに取りかかってください。何日かかりそう? その間の宿泊や食事の方は大丈夫? 最終日に請求書出してくれた際にそのまま現金ですぐお支払いするから。」
「はい。わかりました。ありがとうございます。はいっ。丸三日で大丈夫だと思います。はいっ。大丈夫です。今回は近くに宿を取っていますので食事も大丈夫です。はいっ。」
流れに押されるように、私たちは早速作業に取りかかることになりました。
「全部終わった時にでいいから、声かけて。」
その担当者の方はそう言って事務所に戻って行きました。
私たちの技術の腕も見ていただいてから、と思ったのですが、いいよいいよ、任せたよ、という感じで早々に事務所に戻って行かれました。
私たちは自由に黙々と仕事をさせていただき、全ての焼け焦げの修理を行いました。その間に父に連絡をして聞きましたが、すでに過去に修理に来ていた方が誰なのか名前などはわからないままでした。
大きなギフトとの出会いが、行く先の道を照らす
これは、自分のことを試したり鍛えたりしようと思って出た冒険と挑戦の旅だったはずなのですが、気がつくとまるで違うことになっていたというお話です。わからないままに流れに助けられ、人に助けられたというお話です。
「どこなの? 仕事があるのはどこー? 」
そう声をあげて騒いだ私は、わかりやすくいうならば、見えないところの存在に向ってそう言っていました。その頃の私が認識していたのは今で言うところの「意識と無意識」ということとか「大いなる宇宙」に近い存在のことだったと思います。
ハッキリと意思を表示して、答えを求めました。それもその日のその場で答えが欲しいのだ、という姿勢だったことになります。やり方としてそれは極端だということに対しては無自覚でしたが、現実って動かすってそういうものだよね、と思っている自分がいました。20代の私はそうだったのです。
どれだけ間が空いていたのかも知らないままに、どうして私の口からいきなり「そろそろどうですか?」なんていう言葉が出てきたのか頭で考えると不思議ではありますが、何かを意思すればそういうことは自然と明らかに起きるものなのだ、ということをあらためて学んだのがその日です。
その言葉で雰囲気で私がそう言わなければ、カウンターの方はいつもの業者じゃ無いんだということで、奥に居る担当者の方に繋がなかった可能性が高かったようなのです。今回カウンターにいた方は勘違いしてくれていたのです。私の口はその瞬間にうまく回ってくれていたということなのです。
その当時にすると3日で大きな金額を手にして、持って帰ることになりました。「畳の焼け焦げの修理」という仕事を実際に旅先で挑戦してわかったのは、とても感謝される仕事だったということです。修理しているところで「ありがとう」と通りかかるどなたもが私たちに声をかけてくれるのです。社長さんも女将さんも、担当者さんも、従業員の方々も、皆さんが「嬉しいわぁ」「本当にすみませんね」「綺麗にしてくださって」「お世話になります」そういう言葉とたくさん出会いました。旅館を後にするまで最後まで、頭を下げて「ありがとうございました。」と言われ続けました。たくさんの労いや差し入れもいただきました。
皆さんの対応に自らがどんどん浄化されていくかの様でもありました。この旅のおかげで学んだことは大きく、その後の私の日常に大きな影響を与えました。
もっと真剣に営業に向ってみよう、いや、「意識」「無意識」の世界に「宇宙」にもっと本格的に向おう、そう思った私がいました。畳の修理の仕事もしばらく続くことになりましたが、手助けを借りずに自営的に挑戦していました。ドラマティックな事件が数多く起きたのは三重県でした。数年間の間にたくさん伺いました。不思議なお話はたくさん起き、たくさんの発見と気付きがありました。そのお話は続きます。たくさんの出会いにあらためてありがとうございます。
別の機会にまた、そのお話をさせていただきましょう。今回はここまでに。気が付くと長くなっていました。今回は畳の写真や資料などはあえて出していません。この畳の修理なんていうわからない世界の内容を、浮かぶイメージの中で読んでいただけたらと思います。
宇宙はいつだってここにある。今日もそう思っています。
写真と文 sanae mizuno
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