【名娼明月ゆかりの地②萬行寺】
博多の萬行寺。
明月のお墓のある寺である。
享禄2年(1529年)に、本願寺8代門主、蓮如上人の命により、普賢堂町(現在も「普賢堂」(叶院)という名の寺は、ここにある)に説法の道場ができたのがはじまり。
弘治3年(1557年)には、博多の守護神・櫛田神社前の冷泉町(旧馬場町)へ移転。
寛文5年(1665年)に、祇園、つまり現在の場所に再度移って、今に至るのだそうだ。
明月が亡くなったのは、天正6年(1578年)だから、明月の詣でていたころは、萬行寺は今の場所ではなく、冷泉町(旧馬場町)にあったということになる。
さて、現在の萬行寺は、福岡市営地下鉄空港線の「祇園駅」の近くにある。地下鉄の祇園駅を降りて、パチンコGION1-1や東長寺のある「祇園町交差点」から、国体道路沿いに西に250メートルほど行くと、左側に、大きなお寺が見えてくる。
↑↑↑ 萬行寺の山門。一般的な浄土真宗本願寺派のお寺は、「下がり藤」の御紋をつけているが、萬行寺は違う。この御紋は、安芸広島の毛利家の替紋で、「抱き沢瀉(おもだか)紋」。明月に女人成仏の法話を説いた正海上人の石山合戦での功績により、毛利家から、この御紋をいただき、以来、この御紋が寺紋になっているのだそうだ。
明月の墓は、山門をくぐって右側にある。
ここが、明月のお墓。
「名娼明月墓」と紅色に彫られた墓石。
左側の碑には、なにやら漢文で、明月の由来が刻まれている。
お寺の方に聞いたが、刻まれた文章の書き起こしは、ないそうだ。
また機会があれば、この漢文の復刻をやってみたいと思う。
萬行寺の本堂。
明治期の住職、恒順和尚の「念仏しなされや」の碑。
「法を聞くなら博多の萬行寺」とまで言われた名僧だったそうだ。
この石碑の後ろの木は、トキワサンザシという木で、秋には真っ赤な実をつける。
きらびやかな内陣。しっかりおまいりします。
恒順和尚の写真。ここにも「念仏しなされや」と刻まれている。
本堂の裏にまわると、広い墓地があるのだが、
本堂の東側にある「斎藤家」の墓石のあたりで、本堂を見上げると、
屋根に、こんな鬼瓦が乗っているのが見える。
萬行寺を火災などの災害から護ってくれてるのだろうか。
ついでに、冷泉町にある、以前の萬行寺の跡には、こんな石碑がある。
明月は、柳町からここまで、毎日歩いて、正海師のご法話を聞きにきていたのだな。
明日は、明月が夢で天女から、蜀江の錦の着物を賜った場所、
大宰府の「観世音寺」をレポートします。