「小説 名娼明月」 第45話:一封の手紙
急場を思いがけなき人に救われて、蘇生の思いをしたるお秋は、感激の涙を両眼に湛えながら、母の室(へや)に帰った。そうして事の始終を詳(つまび)らかに話すと、阿津満(あづま)も一方(ひとかた)ならず喜んだ。
「いずれ明朝お目にかかって、ゆっくりお礼を申し述ぶることとしょう。その際、その方がどこの何というお方であるかは判るであろう」
と、その夜は枕に就き、翌朝朝飯を終わるやいなや、すぐにお秋は、その人の座敷を窺ってみたが、どこに行ったものか、姿は見えぬ。女中を捕まえて訊いてみると、
「あの方は、今朝早くお立ちになりました」
と云う。
かくと聞いて、お秋がびっくりしていると、他の一人の女中が、そこに走り寄ってきた。
「その人から頼まれました!」
と云って、お秋に手渡したのは、一封の手紙と、一包みの金子(かね)である。
お秋は不審で堪らず、母のところに持っていって、急ぎ封切り開き、読み下してみると、
「お二人のご難渋(なんじ)見るに忍びず、いささか懐中に持ち合わせありしを幸い、お救い申しました。ほんの私の志(こころざし)でござりますれば、ご返済など毛頭望みません。なおこの手紙に添えましたる、一包みの金子は、私の旅金(りょぎん)の残り、当座のお凌ぎまで差し上げまするから、早速にお宿を替えられて、何か適当な生計(くらし)の道を講じたまえ。この上ながら、孝養専一に存じまする。
名前は申し上げねど、私は筑前の商人でござります。もしご縁もあらば、後日重ねてお目にかかる時がありましょう」
と急ぎ書きに書いてある。
「かくと知ったら、そのとき名前を聞いておくばかりであった!」
と二人が残念がったけれども、もう後の祭りである。宿の者に訊いてみても、
「あの方は、初めての客のことであるから、どこの何という人であるかは…」
判らぬと云う。
世には、鬼もあれば仏もあるものと阿津満母娘は、太左衛門と、この筑前の商人という人とを思い比べ、その日は終日、感謝に充ちた話をして暮らした。
阿津満の病気は、いつ快くなるとの見込みも立たぬ。このまま、この宿に滞在していては、一文の収入(みいり)もなく、食費は次第に嵩(かさ)んで、またも動きの取れぬ窮境に陥ることは、見え透いている。
それよりも、筑前の人の手紙にもありしごとく、貰いし金のある幸い、今日にもどこかへ引越し、静かに自分の力で食っていく方法を講ぜなければならぬ。それにしても、これだけの金では、まだ仕事にありつかぬうちに食い尽くしてしまうから、ともかくも、この宿の主人(あるじ)に万事を打明けて、故郷の田地売払いの事を相談してみよう、というので、母娘からこのことを主人に明かして、その使いを一人、古郷に向け至急に差向けたいと相談してみたれど、
「この戦乱の世に使いの者を遣って大金を託するのは危険この上もないことである。よしその危険はないにしても、貴女からの一通りの手紙や伝言(ことづて)ぐらいでは、田地の預り主が信用してはくれまい。その上、貴方がたは、在所(ありか)判らぬ人を捜しあてるまでは、一年でも二年でも古郷へは帰られぬご決心との由(よし)。限りある金にて限りなき旅の月日を送るということは難しいこと。それより、この横の裏町に、私の持っている家があって、幸い今それが空いている。それへ越されて活計(たずき)の道を立てられてはいかがと思いまする。家具の類は、当分ご不自由なきほど貸して進ぜましょう」
と云って、主人は母娘に、田地売払いのことをを思い止どまるように心から勧めた。
「聞けばもっともな次第である。それでは主人の言葉に従おう」
と、母娘は急に、その裏町の陋屋(ろうおく)に越して行った。