「小説 名娼明月」 第39話:進退谷(きわ)まる(後)
お秋にとりて、このくらい苦しいことはない。早呑込みの罪は主婦(おかみ)にありとはいえ、最初はこちらから頼みしこと。かつ主人(あるじ)夫婦と商人との金の関係、自分の返事一つで、いずれともなる次第。
かくと知りて、なお反(そむ)くは、主人夫妻にに対し、何とも済まぬ次第ではあれど、操(みさお)は女の生命(いのち)である。我ら母娘が飢ゆればとて、主人夫婦の顔が立たざればとて、主婦の言葉に従うことはできぬと、意を決し、お秋は、この儀ばかりはと断って立上り、主婦を残して母の室(へや)に入り、枕元に坐って、義理に攻められし苦し泪を膝にはらはらと落とした。
見れば母は眠っている。
「して、このことは何となるであろうか? 商人は、そのまま帰るであろうか? 商人が怒って主人夫婦に難題を言いかけでもしたらば、自分の立場はますます苦しくなるのである。このことが母の耳に入ったらば、どんなに心配するであろう? 母を思うて思い立ちしことが、かえって母を心配させることとなった…」
と思えば、お秋は、悲しいとも口惜(くや)しいとも言いようのない心持ちになって、涙は止めどなく流れた。
主婦は、面目なくも商人の室(へや)に戻り、直ちにそれとも打明けかねて、とやかく、この場繕いに酒など薦めて待遇(もてな)すを、商人はそれと見て不快で堪らず、主人夫婦を膝の前に呼び寄せた。
「自分は主婦から、斯様(かよう)の娘ありて途方に暮れていると頻(しき)りに薦められたればこそ来たのである。しかるを、今見れば、その娘には少しもその気がない。察するところ、おまえら夫婦が計略(たくみ)で自分に一杯喰わせんとせしものと見ゆ。
不埒とも無礼とも云いようなし!
この上は、金は一文も貸し置くこと相叶わぬ!
貸金の元利合わせて只今返すか、それとも今よりこの家明け渡すか、二つに一つの返事をせよ!」
と勢い凄まじく詰め寄った。
夫婦にとって、これくらい恐ろしい宣告はない。
実はかくかくの次第でありまする、と事を別けて話せども、商人は頑として訊かぬ。
ここに至って、夫婦何とも言いようがない。金を払うには金がない。それかといって家を明け渡せば生業(なりわい)ができぬ。
「これはどうあっても、お秋の決心を翻(ひるが)えさせるより外(ほか)に路(みち)はない! そうである! 是非にお秋を商人の意に従わさせねばならぬ!」
主人は、
「しばしお待ちくだされ!」
と言い置きて、お秋の室に行った。