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「小説 名娼明月」 第48話:病勢進む
お秋の美容と美音とは、たちまち小倉の城下の大評判となった。
もうあの美人三味線が来そうなものである、と日暮るれば、お秋の来るのを待ちかねる人が、そこここにあった。従って収入(みいり)も殖えて、母の病気を養い、己の口を養うのに充分であった。
そうして、このことの評判は、長屋中に伝わらずにはおかなかった。近所のおかみさんや娘さん連は皆、お秋の身を羨んだ。
ある晩のこと、お秋はある家で、尠(すくな)からぬ纏頭(はな)を貰いし上、
「おふくろが病気だそうだから、これを持っていってやんなさい」
と言って、たくさんの珍しい菓子まで貰った。
「この菓子を母の前に出せば、きっとその出所を訊かれる。すれば、今まで自分の秘していた門演(かどづけ)のことを、どうあっても明かさねばならぬ。明かして母を驚かしては、病気の障りとならぬであろうか? しかし、いまこの珍しき菓子を持って帰っては、母に食べさせたくて仕様がない。ことに、これをくれた人も、母に献(あ)げよと云われた。いっそうのこと、打明けてしまおう」
というので、お秋はなるべく穏やかに廻しかけて母に話した。聞いているうちに、阿津満(あづま)の両眼には、涙が泉と湛えた。そうして、
「自分はそれについては、何にも言わぬ…」
と言って、起き直って泣いた。自分のために門演までやってくれる娘の孝心を思えば、感謝の言葉さえ出なかったのである。
冬の寒さは、いよいよ募った。今まで見るもの聞くもの総てが、不気味であり、不愉快であったのが、だんだん住み馴るるにつれて、それほどでもなくなった。なんとなく厭らしかったおかみさんも、怖ろしかった向かえのお爺さんも、親しく言葉を交わしてみれば、どことなく優しく親切なところもある。自分たちと同じく正しき素性から零落(おちぶ)れた人なぞは、ことに良く話が合った。
かつ毎夜お秋が稼ぐ金は、母娘の飢えを凌いてゆくに足りる。この分ならば、この窶(むさく)ろしい仮住まいも、かえって心易くてよい。
と思って喜んでいるうちに、阿津満の病勢は日に募ってゆく風がある。ここに、お秋の心配は、また新たになってきた。急ぎ亀屋に頼んで近所の医師を呼んでもらえば、医師は阿津満の容態を見て眉を顰(ひそ)め、
「注意をせぬと、危ない」
と云った。
お秋にとって、これくらい残忍な宣告が、またとあろうか。けれども、
「今度までは、是非全快させなければならぬ! 自分の真心からでも母の病気は治してみせる! 夫を探し当てて古郷に帰る時の喜びを見るまでは、どうあっても死なしてはならぬ!」
と、お秋はもう、死物狂いになって看病に努め、眠らぬ夜が幾夜も続いた。
それにも拘わらず、阿津満の病勢は刻々と進んで、躯の衰えが著しく目につくようになった。
さらに改めて、前の医者に見てもらうと、
「今度は覚束なかろう…」
と云う。
お秋の驚愕、お秋の落胆、一度は夢ではあるまいかと、自分の耳を疑ってもみた。しかし夢ではない。現に見る影もなく痩せ衰えたる母は、死人のようになってお秋の前に寝ているのである。
「この狭苦しき長屋において、かかる窮迫の中に、ああ、母上は死なれるであろうか! こうして母上を死なせねばならぬ運命であったらば、自分は何ゆえに母上を伴って旅へ出たであろう? つまりは、自分が母上を殺しに、古郷から引っ張り出したようなものである。この罪、この不孝を、何として自分は償うことができようか?」
と、お秋は涙を母に隠して、独り悶えた。