上野の国立西洋美術館で内藤コレクションを観てきました
新聞屋さんにチケット(見出しの写真)を二枚頂いたので、13日に夫と車で上野の国立西洋美術館に行ってきました(お盆の迎え火をする為に会社を休んでいたので)
日傘を忘れたので、駐車場から美術館までの日射しにクラクラ。夫を日よけにしながら歩きました。
『内藤コレクション
いとも優雅なる中世の小宇宙』
なんだか聞いただけで素敵ですのん。
「新聞屋のお兄さん、完全にまりりんの趣味を把握しとる」と夫。
ほんとね~毎回感心。商売上手ね(私は全く新聞読まないんだけど、)
さてさて、内藤コレクションについて全く知らない私たち夫婦は、国立西洋美術館に着いてすぐ説明を読みました。
【内藤コレクションを作り上げた内藤裕史氏が写本と出会ったのは今から約40年前のこと。
パリの古本屋で彩飾写本の一枚物を見かけ、心奪われたのがきっかけでした。以来、パリやロンドンなどを訪れては、一枚物の彩飾写本を購入し、徐々にコレクションが形成されていきました(中略)
以下は内藤氏が学生時代に書いたエッセイです↓
「僕は今、一介の美術愛好家、美術ファンに過ぎませんし、それでいいと思っています。
盲目的といえばいえるほどの情熱を、美術や美術史に捧げてきた。
いわば偉大なディレッタント達がいたからこそ、あの重厚なヨーロッパの美術史学は発展してきたではないか。
俺のような在り方も、あっていいではないか。(中略)
絵画はもっと天真らんまんなものだよ、というのが僕の思いですし、またそれを無邪気に楽しんでいられればそれでいいと思っています。
ただ、途方もない遠回りをしながらも、美術に青春をかけてきた者として、芸術と似て非なる芸術とを識別する澄んだ目を、どうかして自分のものにしたい。(以下略)」】
なるほど~。
内藤氏の学生時代のエッセイの素敵なこと。
「絵画はもっと天真らんまんなものだよ」う~ん、なんて素敵な言葉。
バレエもヴァイオリンもピアノも、私はそんな気がする。あまり難しく考えないで、自分のなかの素直な気持ちに気がつけばいい。
自分のなかの小さな天真爛漫な子どもに気がつけばいい(これぞACCね)
いとも優雅なる中世の小宇宙の作品たちは、私の心にしっぽりと入り込み、美しい不思議な世界を夫としばし楽しみました。
印刷技術が生まれる前は、本は写本が中心だったらしく、写本はだんだん美術的になっていったそうです。
聖書が一番写本されたそう。
美しい聖書。
よけいに人々は心打たれますよね。
まるで絵本の世界。
優雅なる中世の小宇宙。
たくさん写真撮ったのに、何回やっても一枚もアップロードできなくて悲しい~(泣)
私のスマホ、いつもアップロードなかなかできないのでつ。。
ほんとに精密で美しい写本なんですよ。お見せしたかった、、
中世の優雅なる小宇宙。。
なんてロマンチック~って、思いながら見ていたらほとんどの作品が獣皮紙と書いてあるの。
パピルスから作った紙もあるでしょうに、こういう技巧を凝らした写本は獣皮なのかしら。
どんな動物なんだろう。
夫に残酷だわって言ったら「皮まで使ってやるほうが本望だろう」と。
中世の優雅さは決してセンチメンタルなロマンチックじゃないわね。
残酷さを秘めたロマンチックだわね。
いつの世も美の裏には醜がある。醜があるから美が成り立つ。
2つが揃ってひとつなのね。
大人になると、真善美を求めて生きたくなる。真善美って、大切だと思うけれど、偽悪醜があるからこそ存在できるのだろう。
真善美を求めて生きることは大切だと思うけど、それ以外の自分もまた大切。ダメな自分もまた大切。
天真爛漫て、ちょっと全てを含んでいる気がする。子供時代って、残酷で美しいのかもしれない。
天真爛漫て残酷なのかもしれない。
なんだか何を言っているのかまた、自分でもわからなくなりました。
でも、悪を内包した美のほうが深みがあるような、、
真善美も片側だけのものより、偽悪醜を含んだ真善美のほうが心にささるのかも。
片側だけの真善美は人工的で、全部ひっくるめた真善美は自然の命?
だいたいわたし、自分が強いとか正しいとか美しいとか良い人とか信じている人とはお友達になりたくない。。
自分て世の中の常識からちょっと外れた変な人間だと自覚している人に心ひかれる~(笑)
真善美も偽悪醜も、
すべてひっくるめて人間て愛しいでつよね。
お腹がすいたので、スタバで夫にお昼を御馳走してもらいました。
私は注文も片付けも夫に任せて、テーブルに座ってるだけという怠け者(笑)
夫さま、次は美術館のなかのレストランがいいでつ。。
ああ、写本アップロード出来なくて残念。
チケットもらったから車で連れていって~と突然夫にお願いした暑い暑いお盆のお出かけでした。
いつもありがとう。