「急がば泳げ?」-エッセイ-
「急がば回れ」という言葉があります。
『急ぐときほど、慎重にしなければ失敗しかねないので、遠回りなようでも確実な道を行くのがよい』という意味のことわざです。
実は、このことわざ。
滋賀県にある琵琶湖の交通手段にまつわる言葉で、室町時代の短歌が語源になっています。
「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」
ざっくりと訳すと。
京へ向かうために琵琶湖を渡ろうとしている武士に対して「転覆するかもしれない危険のある船よりも、安全な橋を渡る方がいいよ」と諭している歌なんですね。
今でこそ、矢橋(草津市)から大津方面に琵琶湖を横断する際、「近江大橋」という立派な橋があるので、急ぐならこの橋を通るのが一番早いです。
でも昔は、矢橋から船で渡るか遠回りして瀬田にある橋を渡るかの2択でした。
矢橋の船というと、近江八景としても有名で、江戸後期の浮世絵師・歌川広重によっても描かれています。
海と違って、湖なんだから波もないだろうし船でも安全じゃないの?と思われるかもしれません。
……が、実は比叡山の方から吹く風などで、結構大荒れになる事も多いんですよ。
そんな荒ぶる琵琶湖にまつわる民話もあれこれあったりします。
まあ、そんなわけで。
「急がば回れ」ということわざが生まれるほど、琵琶湖を船で渡るのは、昔はとても危ないことだったわけです。
……ところで。
本日の本題は、ここからです。
その矢橋から大津の方へと、あろう事か『泳いで渡った人がいた』という話です。
「泳いで渡る」という無謀な選択
ちょっと何言ってるのか分からないですよね。
船で渡るのも危ないって話をしたばかりなのに。
私もあり得ないと思ったのですが……ちょっとだけ昔話を聞いて下さい。
ーー時は昭和。
終戦後から何年か経って平和が訪れた頃でしょうか。
湖のほとりにある村に、一人の若者がいました。
たいそう力自慢で、辺りの村には敵うものがなかったとか。
そんなある日。その若者に、湖の向こう岸にある町の娘さんとの縁談が持ち上がりました。
つまり見合い話ですが、嫁をもらう話ではなく、婿入りしないかという話でした。
彼は全く気乗りがせず「俺は行かんぞ」と言って周囲を困らせていました。
けど、なかなか仲人も諦めず。
ついに、顔合わせの食事会の日を迎えます。
「そんなに言うなら顔くらい見ておくか。まあ見るだけだぞ!本人に会って直接断ってやる!」
と言ったかどうか分かりませんが。
彼は急に気が変わり、顔だけ見にいくことにしました。
しかし、琵琶湖の対岸に向かう船は、それほど本数が出ておらず。
「これじゃあ間に合わん。泳いでいく!」
と彼は言い出しました。
「いやいや、橋から行けばいいだろう。多少時間はかかるが、次の船を待つよりは早いし」
と、周りが止めましたが。
彼は何と、本当に琵琶湖を泳いで渡るという選択をしたのです。
ーーさて。
片や、お見合い相手の方はというと・・・
こちらは18歳くらいのうら若き女性。
両親にも祖父母にも幼い頃に先立たれ、歳の離れた妹3人を親代わりとなって一人で育てている彼女は、自分が嫁に行っては家が守れないと、大黒柱となる婿殿を探していました。
ところが。
ようやく縁談がまとまったと思ったら、当の本人からは色良い返事がありません。
顔合わせの日にも、時間になってもなかなか現れない始末。
今か今かと不安になりながら待ちわびて、料亭の外へ出てずっと琵琶湖を眺めていました。
琵琶湖を越えた、その先に
祖母「……いやもう、あの時は驚いたわ。琵琶湖見てたら、いきなり黒光りした海坊主みたいな大男がぬっと出てきたんやで。ほんで『あんたがお見合い相手か?』て言うもんやから」
夏生「そんな海坊主て、おばあちゃん。でも、それから結婚したってとこは、おじいちゃんはおばあちゃんの事一目惚れしはったんやね」
祖母「どうやったんやろなあ」
子供の頃。
そんな会話を祖母としたことがあります。
ええ、そろそろお察しのとおり。
これは私の祖母と祖父の馴れ初め話なんです。
祖父は私が生まれる前に若くして亡くなり、話してくれた祖母も、私が成人した頃には亡くなったので、今となってはその話がどこまで本当だったのか分かりません。
祖母は嘘をついたり冗談を言うタイプの人ではなかったですが、流石に誇張か勘違いが入ってるやろと、私や私の父は思っていました。
ところが、数年前のこと。
祖母の法要があり、大叔母(祖母の妹にあたる人)にその話を聞いてみたところ……。
「懐かしい話やなあ。私もよう覚えてるで。あの日は姉ちゃんの縁談の席について行ったんやけど。泳いで渡ってくる人がおるなんて、ほんま驚いたわ」
と言っていました。
父はびっくりして「嘘やとは思ってないけど、船で途中まで行って泳いだんと違うんか?」と聞いていましたが。
「ちゃうで。草津とかのある向こう側から、大津のこっち側まで横断しはってんで」
と大叔母は真面目な顔でそう言ってから、その日を思い出してか懐かしそうにしていました。
……どうやら、私の祖父が若かりし頃、琵琶湖を泳いで渡るパワー系男子だったのは、間違い無さそうです。
一応、念の為ですが。
現代の琵琶湖を泳いで渡ろうとすると、普通に各所に怒られますし、それより何より大変危険なので止めましょうね( ̄▽ ̄;)
それにしても……。
もしも私がタイムスリップすることがあれば、絶対にその日のシーンを見てみたいものです。
↓も琵琶湖にまつわる思い出です。よかったらどうぞ(*'▽'*)