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【エッセイ】便利になればなるほど、どんどん気が散って不便になっていく自分。

今年はなぜか幸田露伴さん・幸田文さん親子の本を手に取ることが多いものの、読了できずに図書館に返したり、買ったまま積んであるものがいくつか。

「努力論」は図書館で借りたもの。

195ページまで読んで、返却期日が来てしまいました。

読みかけでも、挫折しても、拾い読みでも「読書」

露伴さんが「掃除の人」というイメージだけは持っていて。

先に幸田文さんのエッセイを読み、父から掃除について厳しく教わったと書いてあって。水仕事はかなりレベルが高い人がやることで、まずは乾いたところからやりなさい的な。水滴を飛ばすと怒られちゃう。

そんな「家事にうるさい厳しい人」という偏見から入った「努力論」は、生きていくための心構えが延々と書かれています。1/3は何を言っているのかわからず、1/3は当たり前のことをまわりくどく言っている感じがして、1/3はなるほど! と膝を打つのでした。

意味がわからないまま読み続けるのは結構しんどい。

ただ最近、大変な読書家で本屋を営む人に話を聞いた時。

私が「小林秀雄さんの本を読んでもほぼ意味がわからない」と伝えたら、「わからないままでもよくて、読み続けていたら、いつかあれ、こういうこと? と意味が自分によって来る時があるはず」的なことをおっしゃっていて。

それがじわじわと胸に広がってくるのです。読みかけのまま放置した「モーツァルト/無常ということ」を視界に入れながら、その言葉がゆっくりと心臓の鼓動に寄り添う。

私はいつも、「本を最初から最後まで1文字も漏らさず読まねばならない」という不思議な課題を自分に課していて、そのせいで読書を辛く感じがち。でも、本当は「わからないまま放置」でもいいし、「読み飛ばす」もありだし、「読みかけ」で終わりでもいい。私の読書は、私のスタイルでいいのかもしれない。

「努力論」の中の「修学の四標的」は本当に言葉の意味がわからなさすぎて、言葉を書き出して調べたものの、特に脳に定着しない。こういうやり方はあまり向いてない(読み飛ばすのを続ける方がいい)

有名な惜福・分福・植福の説は面白かった

「努力論」に掲載されている、惜福・分福・植福の説は興味深かったです。

言葉の通り、「福を惜しむべし、福を分けるべし、福を植えるべし」な見解。

例えば庭でリンゴの木を育てるなら。

惜福は「花が咲いたらぜんぶ実にしてやろうと欲張るのはダメ。リンゴの木に負担をかけず、来年も再来年も実らせるためにちょっと花を間引いておこう」という姿勢。

分福は「たくさん収穫できたから、身の回りの人にお裾分けしよう」。

植福は「将来もっと実りを得るために、苗を植えよう!」。

というもの。

ちなみに歴代の武士たちが例として書かれている部分も。

太閤は惜福の工夫において欠くるところがあった代りに、分福の工夫において十二分であり、東照公は惜福の工夫において勝れて居た代りに、分福の工夫においてはやや不十分であった。

努力論/幸田露伴著/岩波文庫(p77より抜粋)

秀吉さんは部下に褒美をバンバン出すタイプ、家康は褒美はやらないけど福を残す方はうまかったと。(家康は結構な倹約家だったぽい)

「静光動光」の一文に触れて

それから、p156から始まる「静光動光」は、子どもの習い事が終わるのを待つコーヒー専門店で読みました。

意味不明ゾーンをくぐり抜けながら、なんとなく腑に落ちたのは以下の部分。

電報を握りながら碁を囲んだり、新聞を読みながら飯を食べたり、小説を読みながら人と応対したりするような事は、聡明の人のややもすればする事であるが、何様もよろしくない、悪い習を気につける傾がある。
(中略)
先ず為さねばならぬ事の方に取掛って気を順当にするがよいのである。そして一着一着に全気で事を為す習を付けるのが肝要である。

努力論/幸田露伴著/岩波文庫(p190、191より抜粋)

これは碁を打っていたら電報が届いて、でも碁は打ち掛けなので目が離せず、そうはいっても電報の返事もしなきゃとあわあわする様子を描いてからの解説です。

気もそぞろなまま2つの事項を抱えていい事はないので、一個ずつ片付けろと言っているのです。

(昔の人って、電話もスマホもないのに連絡スピードは恐ろしく早く、「COTEN RADIO」でも同じネタを聞いた記憶がありますが。明治時代、あるひとが初めて会った人に「今日はありがとう」と電報を打ち、相手が帰宅するより前に相手宅に電報が着いているケースもあったとか)

これはね。あれですよね。

最近私も思うんですけど。

1つのことに集中すること自体が難しい?

携帯電話が登場し、誰もがマイ携帯を持ち歩くようになり、常に連絡が取れるようになった今。否応なく集中をぶった斬る連絡が入ります。

「お子さんが具合が悪いのでお迎えに来てください」

今年は4回くらい、子どもの早退対応をしているのですが、スマホの着信画面に小学校の名前が出てくるとビクッとします。

これが「シフト制勤務」とか「公務員系の休憩時間以外スマホが見れない職種」だったりすると、休憩時間まで知らないで過ごすわけです。それが私は24時間、スマホが目の前鎮座系のフリーランスなので、対応が可能(取材中は除外)。

すると、緊急性の高い方から片付ける必要があるため、対応します。

はたまた、メールが届けばアップルウォッチにブブッと振動が走り、忘れないうちに返信しなきゃってカタカタ書きます(そしてそれまでやっていた業務をフッと忘れる)。

業務の中断が嫌だから「後で返信しよ」と思うと返信を忘れるのです私(怖いのでもうやらない)。

コーヒーを飲んで外に出たら空が綺麗だった

連絡手段が増え、24時間臨戦体制になり、「無駄なく動けてスムーズになった」「スピードがアップした」と言われそうなところ、

いやむしろ、逆なのでは?

常に触れる情報が多すぎて、脳のスイッチ切り替えもままならず、それぞれ細々対応はするけれど「じっくり腰を据えて考える」時間は取りにくいし、1つのことに集中すること自体が難しくないか?

…という考えにたどり着きました。

「情報を集約させ、メールチェックは朝昼晩に絞るなどの効率化を図り、常時垂れ流すことを止める努力」をしなければ、むしろ効率ダウンであることを実感しているのですが。

「努力論」には、そういう生きることの根底に潜む「当たり前のことなのに見えないこと」が書かれているのでした。

ちなみに、これは「風立ちぬ」だけを読んで返した堀辰雄さんの本。

ちくま日本文学全集が最近のお気に入りですが、大して読めてはいません。

ジブリの映画も見ていないけれど、小説を読んだ瞬間から「これは原作というわけではないだろう」と体感しました。八ヶ岳のサナトリウムにこもるカップル。女性は重い結核で、男性は多分小説家(私小説っぽいので実話ベース)。

彼女は助からないだろう空気がいっぱいの中で、自然に触れ、日々陰鬱なようでいて「私たちだけが知っている幸せ」を感じながら生きる二人のあれこれ。

ここまで外部情報をシャットアウトした状況で、悲壮感しかないような世界の中で、堀辰雄さんはこれを綴ったのか。すごいです。

一見、何もないところから「何か」を見つけ出す、眼差しの強さ。それを見習い、手に入れていきたいです。

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ライター和田知子:CLANG CLANG クランクラン
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