【ライターの話】「書けないやつは読めてもいない」。 書くことは読むこと、向き合うこと
以前、この本の感想を書いた。
これは、人文系の論文を書くためのhow toを説明した論文執筆指南の本。だけど、文章を書く全ての人におすすめの一冊。
この本の中に、印象的なキーワードがある。
「書けないやつは読めてもいない」
これだ。
結構ショックな話。
「読むことならできる」というエゴを粉砕する一説。
つまり、「書く人は、自分が書いた文章を、できた順に自分で読んで判断していく存在。自分の文章をジャッジできない=その場合、書けていないし読めてもいない」ということ。
読むときと書くときに使う脳みそは同じ。
それが正しいかどうかというより、「そういう姿勢でいる方が書く力が早く身につく」という提言だ。
理解していないものを書くことはできない
読めない=対象物と向き合えていない、理解できていない場合、「書けない」ということにも繋がると私は思う。
最近、大いに反省すべき仕事があったのだけど。
まず、自分への過信として。
どんなに不慣れなジャンルでも、ある程度調べて書くことはできると思っている部分があった(こんな小さい存在なのに恥ずかしくて倒れそう)。
だからITとかAIに関する取材をすることになったとき、相手が話した言葉の表面だけ拾って、それを文章化した。
取材対象者が「Chat GPTを、ある会社のチーム全員が使いこなすことは難しい。だから、アプリにしてあげるんです」と表現したので。
「Chat GPTをアプリ化して提供する」といった表現に落とし込んだ。
が。
編集さんから真っ直ぐに指摘された。
「取材対象の会社は、アプリ開発をしていません。これは、本当にアプリですか?」
さらに、こう続けられたのだ。
「Chat GPTは、これまであったChat botと生成AIが結びついて、自発的に回答できるようにしたもの。ただ、利用者が上手に使うにはプロンプトの書き方にコツがある。だから、取材対象の会社は、そのプロンプトをあらかじめ設定しておいて、使いやすくしてクライアントに提供しているのです。この場合はアプリと表現するのではなく、Chat GPTをカスタマイズしたと書くべきでは?」と。
その通りです。
というか、自分の無知と無理解を突きつけられて、ぐうの音も出ない。
技術的なことがわかるわからないのレベルではなく、「事実をしっかり認識できていない」私の力不足、「状況を読めていない」ことが露呈される結果となったのだった。
でも、この恥ずかしさこそが必要不可欠の学び
身悶えて倒れそうだが、これについても、冒頭に紹介した「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書」に助言が載っている。
私の恥ずかしい経験、「それをそのまま体験するしかない」と書いてある。
自分で自分の文章力を測定することは、構造的に無理。
だから実力のある人に読んで判断してもらうしかないと。
ということは、「読めてないかもしれないし、書けていない可能性はある」状態で、とりあえず読んでもらうと成長が早いということ。
というか、それを経なければそもそも成長しないということ?
この本にも、自分らしさとか、研究者としての主張を研ぎ澄ませるレベルに行く前に、「まずは2冊くらい論文をとっとと書いて出してくれ。とにかく最初は形にすることを経験し、そのやり方を身につけろ。話はそれからだ」と書かれていて。
「書きたいなら読め(目の前の本とか、状況とかを)。そして書いたものを誰かに読んでもらって確認しろ」という、非常にシンプルな行為に落とし込めるなと感じるのだった。
非常に恥ずかしく、けっこう落ち込む体験なのだけど、しょうがない。
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地方の出版社を経てフリーの編集ライターとして活動しています。
○地方でライターの仕事を続けるには
○単価アップを叶えるには
○そもそもライターってどんな仕事?
○編集の視点とライターの視点の違い
などについて、自分なりの解釈をしていきたいと思っています。