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2022年~2024年のM&Aバリエーションの傾向(M&A年鑑2025)
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■ はじめに
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近年のM&A(Mergers and Acquisitions)市場では、企業価値評価(バリエーション)の動向がかつてないほど注目を集めています。企業を譲渡する側は「どの程度の価格であれば自社の価値を適切に評価してもらえるか」、買い手側は「投資回収リスクを抑えつつ、必要な経営資源を獲得できるのか」という点が常に課題となります。とりわけ、企業価値評価を誤った場合には、買い手側が過度なプレミアム(買収に上乗せされる割増価格)を支払ってしまったり、逆に売り手側が適正対価を得られずに潜在的な利益を逃してしまったりするリスクが高まります。
本稿では、2022年から2024年におけるM&Aバリエーションのトレンドを体系的に整理しつつ、その背景にある金利動向や地政学リスク、新型コロナウイルス禍後の経済回復要因などを概観します。さらに、取引価格や主要な評価倍率(マルチプル)を踏まえた業種別の特徴を示し、大型案件(メガディール)と呼ばれる超大型買収のインパクトについても詳述します。そのうえで、M&A市場に横たわる課題や、企業価値評価の適正化に向けた視点、今後の展望を示し、企業として備えるべきポイントを提示します。
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■ 1. 取引価格の推移
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はじめに、2022年から2024年にかけてのM&A取引価格(買収価格)の傾向を年次で振り返ります。ここでは、国内外の経済環境や地政学リスク、金利動向など複合的な要素が企業買収の価格決定にどのような影響を与えたかを概観します。
● 2022年:回復局面での取引活性化
2022年には、新型コロナウイルスの影響が徐々に薄れはじめ、経済活動の正常化が進行しました。一部業種では売上や利益がV字回復に近い形で持ち直し、その結果、M&Aの価格水準も緩やかながら上昇に転じました。ただし、買い手側には依然として慎重な姿勢が見られ、過度にリスクをとらない動きが多かったことも事実です。一方、売り手側は「この回復タイミングを捉えて売却するのが得策ではないか」という思惑もあり、市場には一定の売却案件が出始めました。特に、中小企業やオーナー企業においては、コロナ禍を乗り越えたタイミングで事業承継を含めた売却ニーズが高まった点が印象的です。
● 2023年:インフレや金利上昇下での活況
世界的なインフレ圧力が顕在化し、各国の金融当局が政策金利を引き上げる場面が続きました。ロシア・ウクライナ情勢やサプライチェーン問題など、不確定要因が多かったにもかかわらず、日本のM&A市場は全般として活況を維持しました。投資ファンドのみならず、事業会社同士の競争も激しくなり、大型案件を含む幅広いレンジの取引が増加。その要因としては、①成長戦略の一環で海外ファンドも日本企業への関心を高めた、②円安基調を背景に海外企業からみると日本企業が相対的に割安となった、などが挙げられます。また、国内企業が海外市場の拡大を狙うクロスボーダーM&Aも引き続き高水準で推移しました。
● 2024年:取引件数の最多更新と中小型案件の積み上げ
2024年は、地政学リスクの残存や金利上昇の懸念が続く中、M&A件数が1221件と過去最多を記録。超大型ディール(後述のメガディール)自体は前年に比べると減少したものの、中小型案件が着実に積み上がり、市場全体としての活況ぶりは底堅く推移しています。大手企業の事業再編ニーズや、中堅・中小企業における事業承継ニーズが継続的に市場を支えた格好です。金利が上昇し、調達コストが増大したにもかかわらず、事業ポートフォリオの最適化を図る動きや将来の成長を確保したい買い手ニーズが旺盛で、結果として2022年から2024年までの期間を通じて取引価格は総じて上昇基調をたどりました。
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■ 2. 評価倍率(マルチプル)の動向
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M&Aのバリエーションを測る代表的指標の一つに「EV/EBITDA倍率(企業価値÷EBITDA)」があります。企業の実質的な収益力に対して、どの程度の買収価格が提示されているかを把握するうえで便利な指標です。2022年以降、この倍率は上昇傾向にあり、具体的には以下の数値が観測されています。
• 2022年:約7.2倍
• 2023年:約7.8倍
• 2024年:約8.5倍
特にIT・ソフトウェア業界や医薬品業界のように将来的な成長期待が大きい分野では、EV/EBITDA倍率が10倍を超える事例もめずらしくありません。これは、足下の利益水準だけではなく、今後のキャッシュフロー拡大余地が買収価格に織り込まれているためです。反対に、固定資産や設備投資が大きく収益増加のペースが緩やかな業界では、評価倍率は相対的に低く推移する傾向があります。
背景としては、①買い手同士の競争激化による買収価格の高止まり、②アフターコロナにおける成長期待の回復、③ITやヘルスケアなど先端領域への投資意欲の拡大、が挙げられます。金利上昇に伴う調達コスト増があるにもかかわらず、こうした成長シナリオへの期待がM&Aバリエーションを押し上げてきたと考えられます。
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■ 3. 業種ごとの特徴
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同じEV/EBITDA倍率といっても、業界によって成長サイクルや事業特性は大きく異なるため、M&Aバリエーションにはばらつきがあります。以下に主要セクターの特徴を整理します。
● IT・ソフトウェア業界
AI、DX、クラウドサービスなどの展開で将来性が高く評価されやすい業界です。革新的技術によって市場を大きく変革できる可能性があるため、EV/EBITDAが10倍を超える事例もしばしば見られます。無形資産の評価が難しい反面、買い手としてはエンジニア人材や独自アルゴリズムなどをまとめて取得できるメリットが大きく、競争によってバリエーションが急上昇するケースが多いのが特徴です。
● 医薬品業界
新薬開発やバイオテクノロジーによる大きなリターンが期待できるため、バリエーションは高水準で推移しやすい典型的な業界です。パイプラインの充実度や特許の優位性が企業価値に直結するため、製薬企業やバイオベンチャーのM&Aでは、それらの無形資産評価が大きなウエイトを占めます。また、研究開発に長期間を要し、成功すれば莫大な利益を生む一方、失敗すれば投資が回収不能になるリスクも高いため、慎重なデューデリジェンス(特に技術・法務・知財面)が求められます。
● 建設・土木業界
公共インフラ投資や不動産開発など、有形資産を主体とするビジネスモデルを持つため、バランスシートに計上される資産評価も重視されます。その結果、EV/EBITDAのような収益評価だけでなく、保有設備や不動産などの簿価・時価評価が取引価格決定に大きく影響することが特徴です。加えて、公共事業の入札状況や独占禁止法上の問題(シェアが大きくなりすぎないか、など)にも留意が必要となる場合があるため、法務デューデリジェンスやコンプライアンス面での検討が欠かせません。
● 製造業・小売・サービス業など
製造業では独自技術や生産ラインの効率性、小売業やサービス業ではブランド力・店舗網・人材資源などがバリエーションを左右します。製造業でもハイテク分野、たとえば自動車の電動化(EV)や次世代バッテリー技術など、成長領域に強みを持つ企業ではマルチプルが高騰することがあります。一方、小売・サービス業では店舗や顧客基盤の拡大余地が評価ポイントとなり、競争優位性が高いとみなされればプレミアムが上乗せされるケースも少なくありません。
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■ 4. 大型案件(メガディール)の傾向
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時価総額や買収総額が数千億円から1兆円を超えるような大型案件は「メガディール」と呼ばれ、M&A市場全体に大きなインパクトを与えます。2022年から2024年にかけての主なメガディールの動向を振り返ると、以下のような特徴が見られます。
● 2023年に相次いだ超大型案件
2022年は数百億〜千億円規模の中大型案件が多かったのに対し、2023年には投資ファンドや大手企業が1兆円級のディールを連発。代表的な例として、国内投資ファンドによる東芝への株式公開買付け(TOB)が総額2兆円規模と報じられ、社会的にも大きな注目を集めました。また、日本製鉄が米国USスチールの買収を検討しているとの報道もあり、金額規模が大きい案件ほど市場全体の総取引額を押し上げる要因となります。
● TOB・MBOによる非公開化の潮流
2023年のメガディールでは、投資ファンドによるTOBや経営陣主導によるMBO(マネジメント・バイアウト)など、上場企業を非公開化する動きが特に目立ちました。東芝やJSR、新光電気工業などの案件に加え、大正製薬ホールディングスやベネッセホールディングス、アウトソーシングなども非公開化が取り沙汰されました。非公開化のメリットとしては、①上場維持コストや四半期決算のプレッシャーからの解放、②思い切った事業再編や成長投資を外部株主の干渉なく進めやすい、などが挙げられます。一方で、買収後のガバナンス体制や中長期的な業績改善策は厳しく見られるため、PMI(Post Merger Integration)の成否が将来の企業価値を大きく左右します。
● 2024年の動向
2024年は、1兆円超級のディールが前年ほど多くなかったものの、M&A成約件数自体は最多を更新するなど、依然として活性化が続いています。特に国内では、中小型案件の増加が全体の取引数を押し上げる主因となっています。大手企業だけでなく、ファミリービジネスやオーナー経営企業による事業承継型M&Aの案件が一層増加している点も注目すべきポイントです。
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■ 5. 最新のM&A市場における課題
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活況が続く一方で、近年のM&A市場には以下のような課題が指摘されています。これらの課題を十分に把握し、戦略的かつ法的リスクを低減するアプローチを取ることが重要です。
(1) 金利上昇と買収ファイナンス
世界的なインフレ対策の流れで金利が上昇傾向にある中、買い手企業や投資ファンドにとっては調達コストの増加が避けられません。レバレッジド・バイアウト(LBO)のように借入金を活用する手法では、金利負担が重くのしかかり、買収後のキャッシュフローを圧迫するリスクがあります。買い手が慎重になれば、M&A価格のさらなる上昇には歯止めがかかる可能性があります。
(2) 人手不足と国内市場の成熟
日本では少子高齢化による労働力不足や国内市場の成熟が長期的課題です。大企業のみならず中小企業でも、後継者問題と人材確保を狙ってM&Aを模索するケースが増えています。一方で、国内の需要だけでは成長が見込みにくい局面では、海外企業の買収を通じた新市場への参入が経営戦略上、魅力的な選択肢となります。
(3) 買い手間の競争激化
M&A仲介会社の増加や海外ファンドの参入拡大により、優良な売却案件を巡る競争がますます激しくなっています。その結果、バリエーションが高止まりする一因となり、買い手が過度に高い価格を提示してしまう「オークション化」のリスクも高まっています。特にITやバイオ分野の成長企業では数社〜数十社が買い手候補に挙がることもめずらしくなく、取引条件の差別化(株式交換やアーンアウト条項の提示など)も増えています。
(4) 無形資産・シナジー評価の難しさ
IT技術、ブランド力、人材、顧客基盤などの無形資産評価や、買収後に得られるシナジー効果(コスト削減やクロスセル、研究開発の共同化など)の算定は依然として困難な課題です。とりわけソフトウェア企業同士の統合では、新たに創出されるサービスの将来収益をどう見積もるかが難しく、買収プレミアム設定にも大きな影響を及ぼします。そのため、ファイナンシャルアドバイザーやコンサルタントだけでなく、テクノロジーや知財などの専門家を交えたデューデリジェンスが重要です。
(5) ポストM&A統合(PMI)とガバナンス
金額規模の大きな案件ほど、その後のPMI(Post Merger Integration)が企業価値の向上を左右します。投資ファンドや経営陣が主導するTOBやMBOで非公開化されるケースでは、上場企業時代とは異なるガバナンス体制やディスクロージャーが求められます。買収後に期待されたシナジーや経営効率化を実現できなければ、高額の買収プレミアムを正当化できずに失敗案件とみなされる恐れもあります。特に経営判断のスピード感や社内文化の統合が不十分だと、PMIが長期化し、想定した効果を得るのに時間がかかるケースがあるため、入念な統合計画が必須となります。
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■ 6. 今後の展望
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以上の現状と課題を踏まえ、2025年以降のM&A市場の展望として、以下のポイントが注目されます。
(1) 成長分野での大型M&A継続
DX、AI、創薬などの分野には引き続き高い成長期待があり、投資ファンドのみならず事業会社も積極的に買収に動くと見込まれます。その結果、大型案件が市場を定期的に盛り上げる傾向は今後も続くでしょう。
(2) 事業再編ニーズの持続
コロナ禍で改めて浮き彫りになった事業ポートフォリオの再検証は、大企業・中堅企業を問わず継続中です。利益率の低い事業や将来の見込みが不透明な事業をカーブアウト(分割売却)する動きや、同業他社との統合によるスケールメリットの追求が、今後もM&Aの主要テーマとなります。
(3) クロスボーダーM&Aの堅調推移
円安基調が買い手にとって割高要因になり得る一方、日本企業が海外企業を買収する動きは、中長期的な成長を求めるうえで避けては通れない戦略と考えられます。海外ファンドが日本企業を買収するケースも引き続き増えると見込まれ、クロスボーダーM&Aの取引件数と金額は堅調に推移すると予想されます。
(4) 金利と景気動向による変動リスク
世界経済の回復ペースや金融政策次第では、特定業種の評価倍率が急落したり、逆にさらに上振れしたりする可能性があります。例えば、米国の利上げペースが想定以上に早まる場合や、欧州や中国の景気後退が深刻化する場合には、投資マインドが冷え込む恐れがあります。M&Aを検討する企業は、ファイナンス環境や景気の変動を踏まえて柔軟に戦略を見直す姿勢が重要です。
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■ 7. 企業価値評価の適正化に向けた専門家の視点
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M&Aにおける企業価値評価は、単に財務指標を当てはめるだけでなく、将来キャッシュフローや無形資産の評価、競争環境、規制上のリスクなど多角的な要素を考慮する必要があります。とりわけ、TOBやMBOのように少数株主の権利保護が問題となるケースでは、適正な算定プロセスや公正な手続き(フェアネス・オピニオンなど)が重要視されます。
● 法務デューデリジェンスとコンプライアンス
日本の会社法や金融商品取引法、独占禁止法などの法規制に違反していないか、また、労務・知財・環境など企業ごとに潜むリスクを見落としていないかを入念に確認する必要があります。特に海外案件では現地の法規制に対応したコンプライアンス体制の整備が必須です。
● 税務・会計デューデリジェンス
買収後に発生する潜在的な税務負担(移転価格税制など)や、会計上の繰越欠損金、のれん償却リスクの見極めも欠かせません。意外に見落とされがちなのが、不動産取得税や印紙税などの付随コスト、労務関連の退職給付引当金や未払残業代など、簿外債務にかかるリスク評価です。専門家を交えて正確な把握を行わないと、買収後に思わぬコスト負担が発生してしまう可能性があります。
● シナジー評価とPMI計画
技術シナジーや顧客基盤の相互利用、新製品の共同開発など、買収後に創出し得るプラス効果をどの程度織り込むかは、バリエーションに大きく影響します。適正な評価を行うには、買収先の従業員や顧客データ、特許ポートフォリオなどを詳細に調査し、PMI計画を入念に策定することが不可欠です。
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■ 8. まとめ
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2022年から2024年にかけてのM&Aバリエーションは、コロナ禍後の経済再始動や金利動向、地政学的リスクの顕在化など、多岐にわたる要因が複雑に影響する中で、総じて上昇基調をたどりました。大型案件(メガディール)の発生状況や業種ごとの特性による振れ幅はあるものの、IT・医薬品などの成長分野を中心にEV/EBITDA倍率が高騰し、加えて買い手間競争の激化もバリエーション上昇を後押ししてきました。
一方で、金利上昇や人手不足、市場のオークション化などの課題も顕在化しており、M&A実務は今まで以上に複雑化しています。買い手企業にとっては、財務・税務・法務デューデリジェンスに加えて無形資産やシナジーの評価を慎重に行い、適正なバリエーションを算定することが求められます。さらに、ディール成立後のPMIやガバナンス体制をどのように設計し、スムーズに統合効果を実現できるかが、最終的に買収の成否を分ける鍵となるでしょう。
これから2025年以降も、成長分野での大型M&Aは継続的に生じるとみられ、企業の事業再編ニーズも引き続き高水準が見込まれます。グローバル景気や金融政策の影響による変動はあるものの、M&Aは企業が自らの成長軌道を描くうえで欠かせない選択肢になりつつあります。したがって、企業としては随時、最新のM&A市場動向をウォッチしながら、法的リスクやPMI計画も含めた総合的な戦略を立案・実行することが不可欠です。
M&Aの成功確率を高めるために重要なのは、企業価値評価を巡る専門的知見と、買い手・売り手双方の立場を総合的に考慮したアドバイザリー体制を整えることです。私たち弁護士やM&Aアドバイザーといった専門家が、法務・税務・ファイナンス面での支援やPMI支援を行い、最善の結果を生み出せるよう伴走いたします。企業価値の最大化を目指すうえで、M&Aはあくまでも手段の一つに過ぎませんが、その手段を活用する際に「正しい評価」「適正な手続き」「統合後のガバナンス強化」がそろわなければ、大きなリスクを背負うことになります。本稿が、読み手の皆様の意思決定や学びを深めるうえで一助となれば幸いです。
本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、各種法令・会計基準や個別の事案によっては異なる結論となる場合があります。具体的なM&A戦略や法務対応については、専門家と十分な相談を行ったうえで判断されることをおすすめいたします。
プライマリーアドバイザリー株式会社
代表取締役 内野 哲