マンガドリーム⑨マンガの自由
はじめまして。こんにちは。
散歩が心地よい新緑の季節に、コーヒーやマンガや音楽や物語や美術でエネルギーチャージしつつ、相変わらずマイペースなマンガ道を模索しているGプレッソです。
さて、今回のマンガドリーム第9回におきましては、『マンガの自由』と題しまして、『表現行為』におけるタブーや、ポリコレ・コンプラなど、近年顕著に浮かび上がってきているワードも絡めながら、「マンガの自由」に関してライトに考えてみたいと思います。
とはいえ、『自由』という概念に深入りすれば延々と終わりのない話になってしまいますので、井戸を掘るようなことはせずに、端的にいえば、自身が「マンガ表現」をする際に気をつけるべき(あるいは追究するべき)事柄はどのようなことか?ーという設問をいま一度整理してみる試みとなっています。
そんなこと考えなくても「『表現』の全ては自分次第で永久不滅に『自由』なんじゃないの?」ーというような子ども時代の素朴なクエスチョンへの、頼りなきアンサーとなっていればいいなと思います。
どうぞよろしくお願いします。
まずは、1コマ漫画のマイドリームワールドから始めさせて下さい。
1コママンガ
マイドリームワールド
今回の夢物語は、ミュージシャンの『スガシカオ』さんです。
ある昼下がり、夢の中で、ワタシはシカオさんと、丘のある草原のような場所で話し合っていたのでした。
シカオさんがギターをかき鳴らしながら詞とメロディーを重ね合わせ曲作りをしている場面で、ワタシが何か相談事を持ちかけると、『まあ、力を抜いてやってみなよ』『やってみればいいじゃない?』など、前向きな言葉を掛けてくれるシカオさんがいました。ワタシはとても嬉しい気持ちに満たされていきました。
『スガシカオ』さんは、ワタシのライフタイムの中で『佐野元春』さんに匹敵するミュージック拝聴時間が長いミュージシャンです。コンサートは一度だけ訪れたことがあるのですが、その時に、お客さんが目算で8割以上女性であったのが意外(ワタシの中で)で印象的でした。
ともかくも、憧れのミュージシャンであるスガシカオさんが夢に現れてくれたことは、ワタシの中でいつでも励みになり続けています。
これからもシカオさんの音楽を楽しみに追い続けていきたいと思います。
目次
①表現は永遠に自由?
②何がタブーとなるのか?
③ポリコレとコンプラとエンタメ
④エンタメなら何でもありか?
⑤世界のまなざし
おわりに
連載Gマンガ『ボクはディオゲネス』
次回予告
①表現は永遠に自由?
エンタメ娯楽作品からアートワーク芸術作品まで、世界にはたくさんの『表現作品』があふれています。
絵画 詩 小説 イラスト デザイン 音楽 写真 映画 アニメ マンガ 雑誌 新聞 ゲーム 動画 造形作品 文芸作品 生成AI作品 etc,etc
何かを『表現』しようとする際、時たま「ヒトは何をどう表現しようとも永遠に自由であるか?」-という問いがふと頭に思い浮かんできます。
そんな時、個人的認識として、ワタシの中で(も)整理されていることは以下のような基本的ルールです。
A内心の自由-心に思い浮かべること/想像することは完全に自由
B個人領域の表現の自由-何を作ろうとも自分次第で完璧に自由
C社会的公表の自由-制限される場合がある
以上の基本的ルールをベース(当為)としまして、本記事を進めてみたいと思います。
AおよびBの領域は、あらゆる国や地域やコミュニティ含め、ほとんど多くの場合は、納得・同意されることも予想できます。
問題は、C領域の『社会的公表の自由』がどのようなものであるか?が課題となっているのだと思えます。なので、以下の記事内容は「『社会的公表』における『表現』」に関しての記述となっておりますことをご了解いただければと思います。
果たして、社会的領域において『自由な表現』はどこまで許容されるのでしょうか?
②何がタブーとなるのか?
タブー(禁忌)という言葉をライトにまとめてみれば、
「当社会的に為すべきではないとされている言動や行為」といえるでしょうか。タブーになる言動・行為とは、デリケート/センシティブな問題とも重なる気がします。
世界中の様々な国や地域やコミュニティなどの文化や個々人の中で、それぞれにタブーの種類や度合いが異なることは当為として、具体的にはどのようなモノ・コトがタブーとされることになるのでしょうか?
以下、箇条書きで記しておきたいと思います。
○人種・民族の負の歴史的な事柄
○聖域・信仰的なことがら
○暴力的な事柄(バイオレンス・残虐など)
○奇怪・不気味・不快(グロテスク)
○群を抜いた下品・下劣(マナーの超逸脱)
○犯罪助長的な事柄(クライム)
○性的な事柄(エロティシズム/ポルノグラフィなど)
○生殖行為的/死にまつわる事柄(エロスとタナトス)
○セクシュアリティ(性別・個々人のアイデンティティ)
○パーソナルな領域(個人情報・プライバシー)
○国家機密的領域(秘密・秘匿情報)
○格差に関する問題-ランク付け-
(経済的/学歴的/能力的/ルッキズム的/世代的/年齢的/家庭的etc)
○社会的マイノリティ(少数派)への負荷的事柄
○ハラスメント系な事柄
etc,etc
上記の内容において、タブー自体も時代により変容を成し遂げたりしながら、タブーの許容範囲も社会的/個人的に絶えずスペクトラム状に揺れ動いている、というイメージでしょうか。
いずれにしろ、上記のような領域を表現する時、行き過ぎた表現が問題としてクローズアップされやすいのは、世界中の多くの国々で同様なのだとも思えます。
なぜタブーなのか?
さて、では上記のようなカテゴリーに入る事柄は、なぜタブー(禁止/忌み嫌われる)なのでしょうか。
一口に言えば、少なからぬ人々にとって、心理的抵抗を及ぼすナイーブな問題・センシティブな問題足り得る可能性を有している事柄だからー
集約すれば、『ヒトや社会を傷つける可能性を孕んでいるから』と極論づけられるでしょうか。
もちろん、他者や自身が、どのような事柄においてどの程度の内容や強度で傷つくのかは、もはや80億超の千差万別な領域のお話なので「万人の傷つき」に関して総意の答えは永久に見つかることはないのだと理解できます。
その上で、いかにヒトを傷つけない表現を模索していけるか、表現者サイドの想像力(イマジン)が試され、かつ匙加減が委ねられているのだと思えます。
一方で、一時(いっとき)世界中の誰かを傷つけてでもあえて表現する・せざるを得ないイバラの道を選択する表現者も、世の中には数多く存在しているのだとも想像できます。
「あえてタブーに切り込むとは?」ーこの設問は、後々のマンガドリーム⑪『諷刺とマンガ』(仮)の記事で考えてみたいと思っています。
③ポリコレとコンプラとエンタメ
個人的認識でも、ここ十数年『ポリコレ』や『コンプラ』といワードを折に触れ目にすることが増えて来た感があります。
やがて、言葉の概念は徐々に広がっていき、この二つのワードを自身なりに簡易に理解してみれば、以下のような感じになりました。
○ポリティカル・コレクトネス
・多様性を認め合いながら、差別的・侮蔑的表現を正していきましょうーというスローガン・指針・考え方
・具体的には、人種/性別/国籍/文化/信仰/年齢/障がいの有無etc多様性に配慮した(不快や不利益を与えない)表現を目指しましょう、と言えるでしょうか。
○コンプライアンス
・道徳的・倫理的・法律的に、守るべき-守らなければならない「社会的ルール」を守っていきましょうーというスローガン・指針・約束
・具体的には、各種ハラスメント行為/各種違反・違法行為/各種社会的弱者バッシングなどを無くしていきましょう、と解釈できるでしょうか。
概して、
差別や偏見を無くしていくため・防ぐために『ポリコレ』があり、傷つくヒトを減らしていくため・守るために『コンプラ』がある、というざっくりとしたイメージです。
共に、『実社会をよくしていこう!』という方向性・心意気は重なっているのだと感じることができます。
ところで近年、ポリコレ・コンプラとエンタテインメント表現の関係はどのようなものになっているのでしょうか。
たとえば『ポリコレ』は、差別や偏見を含まないニュートラル(中立的)な表現を心掛けるべきーという考え方から、様々な多様性を持つキャラクターを作中に登場させて然るべきー的なイメージがあります。
近年では、映画界隈においては、ハリウッドアカデミー賞の新基準(受賞者が白人偏重であったことからの脱却を目的としてetc)のトピックが印象に残っています。
マンガ・アニメ表現においては、登場キャラクターの描写がステレオタイプ・テンプレート的になりがちであること(exキャラクターの肌色の問題や人種的特徴のデフォルメ問題etc)への考慮などが思い浮かびます。
『コンプラ』においては、法律を含めた社会的制約の中でどれほどの『面白さ』を表現できるか模索していくことがますます求められている時代であるようです。作品制作サイドにとっては、作り甲斐のある一方で、ある意味悩ましい問題とも言えるようです。
かつてセーフだった表現が、現在はアウトになってしまうことが多々あるので、困惑してしまうことも少なくありません。
近年では、映画やマンガやアニメ等の表現において、いわゆるネガティブ・マイナス的な不適切的シーン描写をどうするべきか?どうあるべきか?-という問題をよく耳にします。具体的には、喫煙シーンや犯罪シーンやグロテスク描写やお色気シーンetc,etcなど表現の工夫がより必要とされる時代になってくるのでしょうか。
また、著作権や肖像権やプライバシー権などへの配慮も『コンプラ』として欠かせない案件なのだと理解しておく必要があると思えました。
昨今AI新時代が幕を開けて、著作権の問題もよりいっそう複雑になってきています。新時代の『著作権』に関しては、「そもそも論」から問い直す・議論を立ち上げるフェーズに突入してきたのかもしれません。
④エンタメなら何でもありか?
世界中の少なからぬ人々と同様、ワタシにとっても、エンタテイメント(娯楽)は、厳しい社会を暮らしてゆく中で心の潤いをもたらしてくれる気晴らし・気分転換・お楽しみの一つです。生活に欠かせないサプリメントのような感じでしょうか。
そんな中、時たまふと頭をよぎる以下のようなクエスチョンがあります。
『この物語は全てフィクションです』と謳えば、全ては自由なのだろうか?
-という問題です。
○フィクションならば全ては自由でOKか?
よくマンガ雑誌の連載等や単行本の最後尾(または最前列)において、
『この物語は、すべてフィクションです』『この作品はフィクションです。実在の人物名・団体名等とは関係ありません』etcの文言が注意書きとして欄外に示されるのを目にすることがあります。
上記のような注意書き・お断りは、きわどい内容の作品にはマストで記載されているイメージもあります。
エンタメ・娯楽作品においては、基本『フィクション(作りごと)』であることは読者・視聴者側には半ば了解済みのことであるとも思えます。
とはいえ、一方で、社会的に公開・公表・発信されたから(公表したから)には、社会的/倫理的/道徳的/マナー的/などの責任が、セットで付いてくることも免れ得ない事実であることは、自戒しておきたいとも思います。
ワタシ自身も、すごく楽しめた映画の感想欄に、匿名のコメントで
「どれだけ作品の完成度が高くても、心に傷を抱えている方に精神的負担を与えてしまうような描写があることには賛同できません・・」的な意見を目にしたことがあります。
『なるほど、そうだな』と納得しきりでした。
一方で・・・同時に、完全フィクションであろうと完全ノンフィクション(的)であろうと、いずれにしろ『表現の自由』は守られて然るべきなのだろうとも思えます。
少なからぬヒトビトの賛同を得そうな見解としては、
『どのような表現物も、表現されてよい。その際、見たい人は見て、見たくない人は見ない、という環境が揃えばOKなのではないか?』-という意見が一つあります。
鑑賞者・受け取り手・ユーザー側への配慮としては、注意書き(丁寧な事前クレジット表記etc)・レイティング(鑑賞制限・区分)-映画・ゲームetc-・ゾーニング(個々人の嗜好に添ったコンテンツの棲み分け・分類)・エイジリミット(年齢制限 ペアレンタルコントロールetc)など、工夫が重ねられてきました。
『マンガの表現』に関して興味・関心・探究心があり、全域的に色々な表現のマンガを網羅的に触れてみたいという好奇心と、作り手としてもやがて色々なマンガ表現方法にもチャレンジしてみたいーという個人的な立場・動機から、
これからも、上記のような「棲み分け」が機能しているという前提条件下において、問題的表現が浮かび上がってきた際には、その都度遍く幅広い議論を行いつつ、『その当該表現がアウトかセーフか?』に関しては、表現者サイドの見識によるバランス感覚・判断力や、一般的な善悪の価値観や倫理観による「社会的な自浄作用」に委ねられるべきで、上からの法的な規制や圧力や強制排除等はあってほしくないな、ーというのが現時点での感想です。
○過去作品はどうなるのか?
時代によって、各種表現に対する社会の許容度・許容範囲は移り変わっていくことはマストなのだと思います。
個人的に気になるトピックとして、
現在の基準で照らし合わせるとアウト的表現となってしまうのであろう過去のクラシック・レトロ・レジェンド的作品群はどのような作品として捉えれば?ーという問題があります。
世界基準からすると「ジパングの表現に対する制限は非常に緩い」ものと捉えられているようです。ひとまずよしあしは置いておいて、戦後(1945年以降の)「何でもありの闇鍋状態であったがゆえの今日のジャパンマンガの裾野の広さと井戸の深さ」が存在し得たのだとも思えます。
21世紀前半の現時点でも、リアルタイムでジャンル多様性が進化している状況は続いています。
少なからぬ作品は、時代を跨いで様々な『新時代バージョン』にアップデート・リブート・リメイクされて、現在も息づいてもいます。
或いは、作品そのままとはいかないまでも、世間に登場したあらゆるマンガは、マンガの遺伝子(マンガミーム的な)として、現在もリアルタイムで『作品要素』として現代マンガに必然的に生かされているはずなので、アンテナに引っかかる気になる作品情報に触れた時などは、どのような作品であろうとも『表現』への好奇心の続く限りは、折に触れ積極的に一読してみようとも思います。
ワタシは多くのクラシックなマンガ作品を、機会がある際には眺め続けていきたいと思います。
⑤世界的まなざし
『表現の自由』を考えてみる時、最重要なキーワードは『まなざし』にあるのではないか?-とふと思いついた瞬間がありました(何かの本を読んでいたのかもしれません・・)。
近年、インターネットシステムの登場・開放以降、個人の表現は可能的に「全世界」に公開され得る時代が到来しました。
その瞬間『表現』へのまなざしは、可能的に限りなく降り注ぐことにもなります。
6000~8000の言語 4000種超の民族 80億人超のヒトビトが暮らしている世界の中で、こと表現・クリエイトの分野・領域・界隈において、『80億超の全ての人類、ヒトや他者を傷つけない「表現」』というものが可能かどうか?-という問題が立ち現れてきます。
『ほとんど不可能』だとも思えますが、不可能ではないかもしれないとも信じてみたいです。
いつの日か、個人からのまなざし、社会からのまなざし、世界からのまなざし、自分自身のまなざしから本当の意味で『自由』になれるとき、はじめて「自由なマンガ」にチャレンジできるのかもしれません。
おわりに
結論は先に出ているのか?
ポリコレやコンプラ、著作権の塔や社会や世界のまなざし・・etc,etcさまざまな表現の壁が、いつでもワタシの心の中にありました(あります)。
しかしながら『表現』行為における決定権は、最終的には個々人の意識・判断に委ねられることになるのでしょう。これは、未来永劫変わらないゴールデンルールなのだと思えます。
結局は、『自身が(自分は)何をどう表現したいのか?』-という一言に集約されることを理解しました。
マンガは、表現は永遠に自由であり、規制があろうと批判を受けようと、賛否が有ろうと無かろうと、自身が表現したいこと・表現すること・公表すること(あるいはしないこと)は、世間や社会の都合とは何ら関係のないことなのだ、と開き直れたら、その時、はじめてフリーなマンガ戦士になれるのかもしれません。
とはいえ、個人的には、ドラスティックに何かと闘うマンガ戦士を目指しているわけではなく(少なくとも現在のところ)、誰かを意図的に傷つける表現を行いたくはありません。
これからもマンガ表現にチャレンジしていく中で、自身の倫理観や道徳観から大きくは逸脱しないように、或いは時に逸脱したとしてもあらぬ誤解を受けないように、また誤解を受けたとしても『表現』の根拠を説明できるように自身の中で色々なことをコツコツ整理していきたいな、と思います。
そのことが、やがて自身なりの「マンガの自由」へとつながっていくことを期待しつつ・・。
本日は御覧いただきましてありがとうございました。
2024年春時点の目標としましては、大きく3つ掲げています。
○「ボクはディオゲネス」を電子書籍として5冊完成させていく
○Gデザインオリジナルグッズを作成し販売していく
○読み切りマンガ1作を完成させて『○○賞』に応募して大きな賞を目指す。
ともかくも、まずは、大きな目標『マンガドリーム』の個人的プロジェクトに着手でき得るかどうか、その挑戦権を賭けて(自分とのと闘いの中でですが)『読み切りマンガの制作』に突入していきたいと考えています。
以下は連載Gマンガ『ボクはディオゲネス』です。☟
○連載ゴキブリマンガ
『ボクはディオゲネス』
第71話 プラス思考。
ご覧いただきありがとうございました!
次回予告
次回、Gプレッソのマンガドリーム⑩におきましては、『ウーマンとマンガ』(仮)と題しまして、女性とマンガに関するエトセトラな記事をライトに綴ってみたいと思っています。
テーマに興味・関心をお持ちいただけましたら、ぜひお時間のある時にでも訪れていただければと思います。よろしくお願いします。
著者紹介
note記事のおしらせ
2024年5月時点でnote記事に以下のラインナップをアップしております。何か引っかかるタイトルがございましたら、ぜひ訪れて頂ければと思います。
電子書籍の宣伝☟
↓アマゾンキンドルにて電子書籍発売中です。
キンドルアンリミテッドでも読めますので、もしご興味頂ければぜひ一読していただければと思います。
本日は訪れていただきましてありがとうございました。
またの機会にお待ちしております!!
最新更新日 2024年5月
参考図書
『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン
森村進 森村たまき訳 岩波書店
『差別と資本主義』トマ・ピケティ他 著 明石書店
『差別の現在』 好井裕明著 平凡社
『いまはそれアウトです!』菊間千乃著 アスコム
『世界のタブー』 阿門 禮 著 集英社新書
『世界の民族と紛争』 祝田秀全監修 昭文社
『黒人の歴史 30万年の物語』河出書房新社
ネマータ・ブライデンほか著 沢田博訳
etc.etc.
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