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リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム

政治思想には、今なお議論されている、大きく分けて3つの思想が存在します。その3つとは、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムです。今回は、これら3つの思想の中でどれが最も妥当かについて自分なりに検討しようと思います。

結論から言えば、私はリベラリズムとリバタリアニズムを両方取り入れ、場合によってどちらを重視するか決めるのが良いと考えます。コミュニタリアニズムを批判してから、残り2つの検討をしていきます。


〇コミュニタリアニズムとその問題点

コミュニタリアニズム(共同体主義)は、その名の通り「コミュニティ(共同体)」の連帯を重視する政治思想です。その名前から田舎のムラ社会などを連想する人が多いと思いますが、そのイメージとは少々異なるようです。コミュニタリアンは、コミュニティ内の決定は極めて民主的に行われ、田舎の様に閉鎖的でもないと主張しています。政治的な事柄を、(大小について明確な定義はありませんが、地域を意味する)コミュニティ内で決定し、「公共善」を実現することを理想とします。この思想はサンデルの一般書が邦訳されたことで日本でも知られるようになり、一時期は「サンデルブーム」が起こるほど有名になりました。コミュニタリアニズムを他の思想と比較する上で重要な点は、コミュニティ内の道徳的・宗教的価値観を重要視して、善(幸福)の在り方を政治で(公で)決定しようとする点です。(いわゆる公共善)

リベラリズムが趨勢の現代では、道徳的・宗教的善は個人の自由意志によって決められるという考え方が一般的ですが、それらを熟議民主主義の議論の対象としてコミュニティ内で共有しようとするわけです。アリストテレスが「人間は共同体的動物である。」というように、コミュニタリアンも、「人間は身近な人間とともに、共通の道徳的・宗教的価値観を持ち互いに思いやりを持って生きる」、これが至高の生き方だと考えたのです。

とどのつまり、コミュニタリアンは人間の本質が共同体的であると主張するわけですが、私はそうは思いません。なぜなら、一度自由を手に入れた人類が自由を制限された環境で生きていくのは難しいと考えるからです。そもそも私は人間の本質なんてものは信じません。自由がない状態が当たり前だった時代の人間と、基本的人権が広く浸透し自由が当たり前になった今の人間では、自由の重要度が全く違います。「自由」でなくとも何でも、有ったものを失くすのは耐え難いことです。

自由を手に入れた人間たちが、自由が制限されるコミュニティに「戻って」共生することは、コミュニタリアンが考えるほど理想的な状態にはならないでしょう。コミュニタリアンは「道徳的・宗教的公共善は十分な熟議があれば決定できる」といいますが、実際にはどれだけ熟議したところで、慣習的で理性的考えに欠ける場合が多い道徳・宗教についてすべての人が納得のいくような決定などなされるはずがないので、結局は多数決で決まることが多いでしょう。少数派は、本来自由であったことも共同体に縛られてできない、その不自由さに辟易して共同体を分断する可能性があります。共同体同士で抗争・対立が起こる可能性もあります。これらのマイナスの出来事は確かに憶測でしかありませんが、コミュニタリアンの理想である、「コミュニティ内は道徳的かつ平和に矯正可能である」といった構想よりは現実的だと思います。

余談ですが、私は「人間は自由を求める生物である」という意見を持っているわけでもありません。また、人間の価値観は一人一人完全に異なるとする(「実存は本質に先立つ」)サルトルなどの自由意志論者とも異なる意見を持っています。人間の定義は不可能であり、自由や連帯など、重要視する価値観は時代や環境によって異なると思っています。

コミュニタリアニズムはあくまで人間像や共同体の在り方についてリベラルを批判していたのであって、経済についてはあまり触れていないようです。(格差は共同体の道徳を危ぶむとは言っているので、大方リベラリズムと同じでしょう) しかし、リベラリズムとリバタリアニズムは政治思想ではありますが、経済と深く関わっています。そのため、この先は政治哲学の範疇に収まらない議論になります。


〇リバタリアニズムとリベラリズム

リバタリアニズムは、現在でも非常に支持者が多い思想です。リバタリアニズムとは、個人の自由を最重要視し、権力(特に国家)による介入を最低限に抑えようとする思想です。これを経済面で強調した思想が新自由主義(ネオ・リベラリズム)であり、これは1980年代、アメリカ大統領がレーガンだった時に世界的に広まり、イギリスのサッチャー、日本の中曾根康弘などが新自由主義に則った「小さな政府」政策を打ち出し、実際に様々な事業が民営化されました。一時期の民営化ブームは去ったとはいえ、自民党は今でも、他党に比べれば新自由主義の立場にたっていると言えます。

メリットは、(権利の上では)完全なる自由を得られる点ですが、デメリットは、賃金など様々な面で格差が広がり、貧困層も生まれ得る点です。(80年代にネオリベが流行った時は、トリクルダウン理論という、「富める者が富めば、自然と貧しい人にも富が浸透する」考え方がありましたが、これが少なくとも日本で機能しなかったことは現在の状況を見れば明白でしょう。)

リベラリズムは、個人の自由を尊重しているものの、財産権に対しては国家がある程度介入するべきであると考える思想です。個人の権利という尺度で考えた時に、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムの折衷的な考えを持っています。この考えはアメリカのジョン・ロールズの「正義論」で提唱されたものです。リベラリズムによって累進課税制度はより多くの支持を得ることに成功し、現在では多くの国が累進課税制度を導入、あるいは中心的な税制として採用しています。

メリットはやはり国民の格差を少なくし、機会平等を実現できる点にあり、デメリットはある程度個人の自由を侵害し、高所得者の負担が大きくなる点です。

それぞれの思想の簡単な特徴を紹介しましたが、かなり複雑な経済事情が大きく関わってくるため、この2つの思想のメリットとデメリットに関してはケースバイケースであり、とてもシンプルに語れるものではありません。言ってしまえば、権利や自由といった政治哲学的議論よりも、その時その国が抱える事情を考えた上での経済的議論の方がよほど大事であると思います。

リバタリアニズムは自由を利点としていましたが、国内で経済格差が広がると、情報格差や世代を跨いだ教育格差までも広がり、機会の平等が失われ、最終的に国民が自由を失うという真逆の結果が出ることもあり得ます。(お金が足りなくて大学に行けないなど、格差ゆえに選択が制限されるということ) そのため、基本的にリバタリアニズムは長続きしません。

これだけだと、少なくとも経済的にはリベラリズムの方がよく見えますが、経済のリバタリアニズム、つまり新自由主義ががかなりプラスに働く場合もあります。その最たる例が中国です。中国は、一時的に格差が大きくなることは覚悟した上で、安い労働力と低い税金を謳い文句にして海外の有力企業を誘致して経済力を爆発的に上げることに成功しています。その後は自国の企業も台頭し、人々の暮らしは東側を中心にかなり豊かになりました。トリクルダウン理論が実証されたわけです(中国では先富論というらしいです)。政治的にはリバタリアニズムとは真逆なので良い例ではないかもしれませんが、リバタリアニズムは経済面においてマイナスなわけではないことは分かって頂けたと思います。

以上から分かる様に、これらの思想のメリット・デメリットはあくまでも表面的であり、場合によっていくらでも変容します。完全な優劣をつけることはそもそも不可能であると言えるのではないでしょうか。

長くなりましたが、ここで先の結論に戻ります。私は、リベラリズムとリバタリアニズムにはどうしても優劣はつかないため、国家の様々な事情を総合的に判断してどちら寄りにするか決定すべきであると考えます。

最後までご覧下さりありがとうございました。





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