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あんたが想像できないような人間はこの世にたくさんいるんだよ【映画】正欲

■正欲


■あらすじ

 同じ地平で描き出される、家庭環境、性的指向、容姿 様々に異なる背景を持つこの5人。だが、少しずつ、彼らの関係は交差していく。
まったく共感できないかもしれない。
驚愕を持って受け止めるかもしれない。
もしくは、自身の姿を重ね合わせるかもしれない。
 それでも、誰ともつながれない、だからこそ誰かとつながりたい、とつながり合うことを希求する彼らのストーリーは、どうしたって降りられないこの世界で、生き延びるために大切なものを、強い衝撃や深い感動とともに提示する。
 いま、この時代にこそ必要とされる、心を激しく揺り動かす、痛烈な衝撃作が生まれた。 もう、観る前の自分には戻れない。

映画「正欲」公式サイトより

■正欲のみどころ

①登場人物についてのエピソードが重厚

 さまざまな想いを抱えた登場人物が魅力。
登場人物のタイプが複数いることで観る側が誰かには共感できるようなしくみがすばらしい。しかし逆を言えば、登場人物が複数いることで人によってはもう少しこの人物を深掘りしてほしかったな、という物足りなさは感じるかもしれない。
とは言え、登場人物の想いとまったく同じとは言えないまでも似たような想いを抱えて生きている人にはかなり刺さると思う。

②無関係だと思われた登場人物が繋がっていく快感

 各登場人物のエピソードで構成される。一見して年齢も性別も職業も別々なのだが、ある一点において繋がっていく様が快感。
謎解きとは違うが、タイトルの「正欲」をきちんと補完することになっていくプロセスに引き込まれる。

③キャッチコピー「観る前の自分には戻れない」が秀逸

 ポスターに添えられているコピーだが、これがかなり素晴らしいと思う。
この映画で何かを受け取り考えることができる人には世の中に想像できない欲望、思考や嗜好、価値観、倫理観の持ち主がいることを知るだろう。
そんな人が実は自分の近くにもいるかもしれないと深く浸透した時、
もう観る前とは人に対する接し方が変わるかもしれない。

 さらに、登場人物と同じように生きづらさを感じながら生きている人は
もしかしたらどこかに自分と同じ感覚を持っている人がいるかもしれない、
明日出会えるかもしれない、自分だけではないんだと前向きにもなれるかもしれない。しかし逆もまたしかり、である。
他者と違うことで生きることさえままならない現実に直面するかもしれない。

まさにこの映画をドンピシャで表す「観る前の自分には戻れない」というコピーはとても美しい。

■あんたが想像できないような人間はこの世にたくさんいるんだよ

・マイノリティの苦悩

“この世界を歩いているとさ、いろんな情報が飛び込んでくるじゃん。
あれってさ、みんな明日死にたくない人っていうか死なない人のためのものじゃない?明日生きていたくない人とか死んでもいい人のためのものってないよね。ああいう流れに乗るのが社会の一員ってことだよね。
それが安全なんだよね。ほっとかれるにはそれがいちばんなんだよね”

映画「生欲」冒頭/佐々木佳道

 このセリフから始まる。このセリフの中でこの映画というかこのテーマを表しているのが、“ああいう流れに乗るのが社会の一員ってことだよね。
それが安全なんだよね。ほっとかれるにはそれがいちばんなんだよね”
という部分である。

 他者と違う感覚をもつ登場人物は、自らを偽り生きている。
社会では大多数に向けた情報があふれている。
当たり前と言えば当たり前なのだ。そうやって社会は回っている。
しかし、ある意味では同調圧力のように感じる部分もあるのではないか?

 例えば、結婚することが当たり前だとか男らしさ女らしさという
権利がまるで義務であり、そうでなければ異常者のような扱いを受けてしまう。だからなるべく大多数と合わせること、目立つことなく深い話題を避けることで“擬態”しなければならない。
それを冒頭のササキのナレーションにて示している。

—ササキとナツキ—
 
この二人は、異性に対して性的な魅力を感じない。
よって恋愛や結婚といった大多数の当たり前がわからないでいる。
ササキはこういった違いのため職場の同僚たちと良い関係ではない。
ササキは職場で草野球に誘われるが、誘った方は「どうせ行かないよな」と半ば諦めと嘲笑が混じった言葉や態度である。
 
 ナツキは自宅で両親とテレビを見ている時、母親は幼い子供が出ている番組をしきりに観たがることを、「結婚して孫の顔を見せろ」という圧力に感じてしまう。社会では“普通”とされる恋愛や結婚、性欲というものに違和感や相違を感じていてそれが明るみになってしまうと排除の対象や孤立、嘲笑の的になることを恐れている。
 この二人に共通することは、社会の“普通”がまるで脅しのように感じてしまっているのだ。二人は自分の嗜好を分かり合える者同士、お互いに支え合いながら生きていく決断をする。

—カンベとモロハシ—
 
大学生のカンベとモロハシの二人の共通項はどちらも“自分が正直でいられる場所”を見つけているという点である。カンベにとってそれはモロハシである。

 カンベはトラウマによって男性恐怖症であるが、モロハシだけは大丈夫なのだ。男性恐怖症であるため恋愛はできない、したくない、性的な欲求すら気持ちが悪いと感じている。しかしそれでも人を好きになってしまうという二律背反に苦しむ。

 モロハシは自身の欲求が人とは大きく違うことで人を避けながら生きている。しかしモロハシはなるべく浮かないようにうまく実生活では立ち回っている。ダンスサークルでは人気者のようだ。文化祭において「多様性」をテーマにダンスをすることになったが、モロハシはそのテーマの扱いにかなり難色を示す。モロハシは自身の感覚が“普通”と違うことでおそらくかなり寂しい時間を過ごしたのだろう。
多様性という言葉をまるでおもちゃのように扱う仲間にあからさまに嫌悪感を示す。

 劇中において二人の邂逅は凄まじく、この映画でかなりのインパクトがある。先にあげたササキとナツキのように手を取り合うことができなかった。
カンベは唯一恐怖症を感じないモロハシに対し憧れや恋愛感情を顕にするが、モロハシには恋愛感情はない。
それどころか序盤はうっとおしくさえ感じている。
しかし二人が教室で邂逅した際、カンベの心からの訴えによって、
カンベが浮ついた気持ちではなく、モロハシ自身と同じように
孤独を感じていてそれを打破しようと必死に苦しんでいることを認める。

—テライ—
検事をやっているテライは、不登校の子供を抱えている。
“普通”であるテライは我が子が学校へ行かずYouTuberになることに嫌悪感を示す。子供のYouTubeにおいて、小児性愛の対象とされることに大きな懸念を感じている。
 しかし妻は、子供が楽しくあればいいとのことでどんどんYouTubeを促してしまう。さらにそこへNPOの職員まで協力し、父親の威厳もなくなってしまうので目も当てられない。

 このテライという人物はこの映画において、“大多数の象徴”であると考える。不登校、YouTuber、後半にはササキやナツキ、モロハシとも出会うが
彼らの趣味嗜好が一切理解できないでいる。
テライは“普通ではないことは悪だ”という領域まで到達している。
それはテライが検事という職業柄、“犯罪者はだいたい変なやつだ”という固定観念、偏見があるからだろう。

 この映画をうわべだけで語るなら、テライはただの視野が狭いわからず屋でしかないだろう。しかしよく考えれば大多数ではない少数派を過剰に擁護したりやたら持ち上げてしまうとそれもまた違う。
立場が逆転するだけでなんの解決にもならない。
また新しい“普通に以上なこだわりを持つ”という特殊な嗜好として扱われてしまう。

・多様性

—個性と多様性—
 
この映画で私が思い出すのは“個性ブーム”である。少しでも他者と違うところがあれば「個性的だ」としてもてはやしたりする文化である。
私もかなりの確率で言われてきたし、今でも言われたりする。
はっきり言って私はこの言葉を嫌悪している。
 個性とは“理解できない者を区別するための言葉”でしかないのだ。
もっとセンシティブに言うなら、“悪意のない差別”であるとも思う。
個性的だ、とすることで「あなたと私は違うのよ、あなたのことはよくわからないから近寄ってくれるな」という線を引いているのだ。

 2002年に「世界に一つだけの花」という歌が流行った。
“No.1にならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン”というアレである。この歌も私は苦手である。多様性も似たようなもので、というか2000年代の“個性ブーム”が形を変えて“多様性ブーム”として再来しただけなのだ。
私の持論であるが、今現在いろんな媒体で取り上げている多様性の内容は
日本人には不向きであるし、本質がまったくズレていると感じる。この件に関しては長くなるし、映画から外れてしまうので別記事にて書くことにする。

 端的に言えば、
“大多数が言う多様性というのは、大多数が理解できる範疇であり、理解できるかどうかを大多数が判別し、さらにその判別する主体(決定権がある者)が存在しないただの世間の流れと同調圧力によるもの”
であると考える。異論反論はあるだろうが、これは私の持論であるからどう思ってもらっても結構。

—理解できないものに対して—
 
人は理解できないものを「悪」とする。この世の大半はテライなのだ。
特に日本の風土的な考え方かもしれない。村社会・村八分といった言葉があるように同調しなれば排除の対象となるということが遺伝子レベルで刷り込まれているのかもしれない。

 私はこの映画の登場人物に深く共感した。
私も少数派であるから、生きづらさは多く感じている。
だからと言って少数派をメインストリームにしろ、とは言わない。
なぜかと言うと先も書いた通り、結局のところそれを言ってしまうと、
少数派と多数派が逆転するだけで何も変わらない。
またどこかで誰かがさみしい思いをすることになる。

 ササキやナツキ、モロハシ、カンベを“普通”だとしたら、テライはひとりになってしまう。実際劇中でも終盤で離婚調停中であることが示唆された。
テライはテライで正しいはずだ。ただ家族と意見の相違、教育方針の違いでしかない。「悪」ではないのだ。

少数派を許容するということはある意味では危険な部分もあるのだ。
テライの懸念のように犯罪まがいのことももちろんあるのだ。
小児性愛など性的な嗜好や性の認識、人格、精神を詐称することでの犯罪など慎重を要することがあることも事実だ。
だからテライの態度は一定のラインとして存在するべきなのだ。

しかし少数派のすべてが「悪」であるとしてはいけない、理解しないまま「悪」だと断罪することは許されないのだ。
まずは“理解しようとすること”が必要な態度であると考える。

—欲望だけでの話ではない—
この映画には性的な欲求について多く言及されるが、問題は性的なものだけではないと考える。
 先に私も少数派だと書いたが、私は別に取り立てて性的に少数派ではない。(と自分では思っているだけかもしれないが)

 少し話は逸れるが、私は性的な欲求、嗜好については一般の人よりも理解と知識はあると自負している。
難しく言っていて恥ずかしくなったから簡単に言うと、数ある性的なカテゴリー、プレイからフェチまである程度理解することができる。
それは若い時にアダルトショップで働いていてそういったDVDやグッズに囲まれて働いた経験があるからだ。
その当時は「まさか。こんなものでムラムラするのか」などというカテゴリーでも一定の需要と売り上げがあるのだ。
よってどんな性癖を言われてもなんなく受け入れることができる。
むしろ興味すらある。

 話を戻すと、この映画のテーマは性的な欲求、嗜好だけではないし
それだけをもって少数派とすることはできない。
この話も長くなるので別記事にしようと思うが少しだけ書く。

 例えば日本人は甲子園で暑くなるし、高校球児をみると応援したくなる人が多い。涙する人もいるぐらいだ。「頑張ってるね、青春だね」と言って賞賛する。もちろんそのことを否定しているわけではない。
ただ高校球児は野球が好きで、野球選手になりたいと思っている子もいて
一生懸命やっている。それは他のカテゴリーでも同じなのだ。
例えば漫画が好きで漫画家になりたい人、アニメが好きでグッズを買い漁る人、アイドルが好きで握手会に頻繁に通う人。
 こういった趣味嗜好を持つ人間を否定したり、気持ち悪いと決めつけたり、馬鹿にしたり、中傷の的にしたりしてはいないだろうか。
「漫画家なんてごく限られた人しかなれないでしょ」
「アイドル追っかけて気持ち悪い」
「女の子のフィギュア買って何すんの?」
こういうことは世間でよく聞く言葉だと思う。

 高校球児だけではない。音楽だってそうだ。
バンドやシンガーソングライターになりたい、ダンサーになりたいという人には頑張れ頑張れと囃し立てるのにある一定の“好き”や“夢”に対しては徹底的に排除にかかる。
これは単純に野球も音楽もそうだが、世間で一般的なもので理解がしやすいものは受け入れられるが性質上理解できない、理解しにくいものであるというだけである。特に私は地方出身なので、地方ではよりそういう夢をもつ人間は馬鹿にみえるだろうし、理解もできないだろう。

とは言え、その中でもちゃんと犯罪や誰かが傷つくようなカテゴリーがあったり、実際に被害を受けてのこともあるだろう。
この映画で言うところの“テライ”のラインだ。そういう悲しいニュースや痛ましいニュースばかりが目に付くのも事実だ。

 “正しさは記憶しやすさに規定される”という説がある。
【「パ」で始まる単語と「パ」で終わる3文字の言葉どちらが多いか?】という質問に答える実験があった。
「パ」で始まる単語が多い、「パ」で終わる単語が多いと答えはさまざまだ。しかしこの問いの本質は【どちらが多いか?】ではない。
「パ」で始まる単語が多いと答えた人は単純に「パ」で始まる単語を多く知っていた、記憶していたから多いと答えただけだ。
「パ」で終わる単語が多いと答えたのも同様だ。

 結局のところ、誰かの言う正しいや普通というのは記憶の量と、好き嫌いという漠然としないものをなんとなく基準としているだけなのだ。
さらに言うならその記憶の量はSNSなどのネットの普及によってどれだけ露出させるかはある程度コントロール可能になってきているし、好き嫌いでさえ誰か著名人・有名人の一声で変わってしまいさえする。

何も性的な欲求や趣味嗜好、性別の認識、精神の状態だけが少数派のカテゴリーではない。いろんな場所で、いろんなカテゴリーに少数派はいる。

ナツキの最後の言葉。
「あなたが信じなくても、私たちはここにいます」
これに尽きるだろう。

・「僕がもし明日死にたくないって気持ちになったら歩き慣れた世界はどう見えるのかな」

少数派は理解しろと言っているわけではない。
メインストリームに祭り上げろとは言っていないし、理解しろとも言わない。ただ“理解しよう”という態度を望むのだ。
理解できなくてもいい、いや理解できないだろう。
理解しようという態度とは、“許容”や“受容”なのだ。
単純に“こういう人もいる”という程度でいいのだ。
馬鹿にしたり、嘲笑の的にしたりせずただ許容してほしい。

ササキはテライに
「僕はみなさんの世界で自分がどんな人間かバレないように、明日行きたい人のフリをして生きてきました」と言った。
モロハシは
「僕、ずっとあんな日なくて、同じことを誰かと分かち合うとかそんなの全然なくて。それが罪なんですか?」と言った。

もし自分がちゃんと存在したい、存在できるという居場所があるなら世界はどう見えるだろう。

私の問題で言えば、住む場所や環境を変えることで簡単に解決するだろう。
少数派とは言え、業界に入り込めば私なんて少数派でもなんでもない。
今の現状ではただの汚い少数派なだけだが。
しかしその環境を変えることの難しさが人生に横たわるのだ。
その環境を簡単に変えることができないからこそ私はいまだ少数派のままなのだ。

今、私は自分の環境を変えることができる兆しはつかんでいる。
死にたくないという気持ちで世界が変わり始めている。



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