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ポストヒューマニティーズとはなんぞや⑦

とうとう色々すっ飛ばして現代までやってきました。
『寝ながら学べる構造主義』の後は『いま世界の哲学者が考えていること(岡本裕一郎)』を読んでいます。この本は2016年出版。それからさらに5年経っていますので、いまとはまた状況が違うのかもしれませんが、とりあえず本題のポストヒューマニティーズに入って行こうと思います。

ただ一つ私の中にまだはっきりしていないのは、「構造主義」と「ポスト構造主義」はどう違うのか?というところ。「ポスト構造主義とは、構造主義を批判的に受け継いだ思想うんぬん」とか書かれていたりするのだが、どう批判し、何を提唱したのか?がよくわかっておらず。デリダ、ドゥルーズ、リオタールなどの思想がポスト構造主義と言われる人たちの考え…?とか思いつつ、この主だった人々のことすらほぼ知らない状態で無理やり現代に飛んでいるので、ちょっと理解しきれないところも多々ある。それらは興味が続けば今後のんびりやっていくとして、とりあえず突き進んでみたいと思う。

①現代の哲学が問題にしていること。

哲学にしろ芸術にしろ、理論に先立つ「現実」、「具体的な現場」というものがあってしかりだ。
私たちが直面している現実は、デジタル通信技術が生まれ、AIやバイオテクノロジーが急速に発達した時代。15世紀の活版印刷技術以来の大きな歴史的変化を迎えているのでは、と考える人もいる。

哲学も、これまでとは変化してきている…。自分とは何か、とか、幸福とは? みたいなことを考えるのが哲学かしら?というイメージも強いかもしれないが、もうそこからかなり進んでいるようだ。

マイナンバーを駆使したあたらしい管理社会のことや、脳波測定の可能性(犯罪者になりやすいかどうかを分析したり)、クローンや遺伝子改良、環境問題なども無視できない状況にある…これまでの哲学が直面していた問題だけでなく、現代特有の状況がたくさんある。それらを踏まえて、いま何が起きているのか、起きようとしているのかを考えていくことが必要とされている。


②哲学史的な流れ

17世紀頃までは人間の意識や実在、人は世界とどう関わっていくべきかみたいなことを主題にしてきたらしい。絶対的な世界がある、と考えられていた時代。

それが20世紀の構造主義(や、フランクフルト学派や解釈学、分析哲学)によってひっくり返されて、世界などないのだ、あるのは構造だけ。ということになり、私たちはあらゆる価値構造に常に取り込まれながら、感じたり考えたりしているのでは、という考えが広まった。

この考えは「相対主義」とも言われる。絶対的な正義や善悪というものは存在せず、どの立場からみるかによって違う、普遍的な真理はなく、あるのは多様な意見だけだ、という考え。

あるのは多様な意見だけ、ということはつまり、その多様な意見を持つ「人間」が、世界認識のためには必要不可欠、ということになる。

現代の哲学は、そこを乗り越えようとしている。

人間不在の哲学、人間以降の哲学。

それが「ポストヒューマニティーズ」の大きな枠組みだ。

構造主義的な、言語中心の考え方の枠組みを乗り越える、新しい哲学の総称、とも言えそうだ。

③次回は具体的な考え方について

マルクス・ガブリエルによれば、
仮に、「山」「山をみるAさん」「山をみるBさん」がいた時、

■17世紀以降=「山」しか存在しない(世界しか存在しない。「見る人のいない世界」)

■20世紀以降=「山をみるAさん」「山をみるBさん」しか存在しない(多様な意見しか存在せず、「山」という絶対的なモノはない「見る人しかいない世界」)

■21世紀=「山」「山をみるAさん」「山をみるBさん」全てが存在する

という風に例えた。21世紀のところはどういうことかというと、モノも人も、等価値に存在する、ということだと思う。「思考する人間」がいて、「思考対象であるモノがある」という認識は人間を中心に捉えているので、そうじゃない図式を考えよう、というのが21世紀以降の流れなのだと思うけれど、哲学者によってその「そうじゃない図式」は様々だと思う。

「ポストヒューマニティーズ」と一口に言っても、哲学者によって様々な考えがあり、『いま世界の哲学者が考えていること(岡本裕一郎)』の中でも主だった立場についてまとめられていたので、次回はそれについて整理したいと思う。


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