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今持ち合わせている最大限の愛情を注ぎ込み、" 陰陽 " が整えば・・・ 彼女たちの瞳にも " 雨 " が降る [第9週・3部]
若き実力派俳優・清原果耶氏の代表作である 連続テレビ小説・『おかえりモネ(2021年)』 。 その作品の筆者の感想と『映像力学』の視点から分析・考察し、「人としての生き方を研究しよう」という趣旨で展開されているのが " 『おかえりモネ』と人生哲学 " という一連のシリーズ記事だ。それで今回は、第9週・「雨のち旅立ち」の特集記事の3部ということになる(2部はこちらから)。
それで今回の記事は特に第9週・44話を集中的に取り上げている。この第44話も全120話を通してみても、非常に肝となるシーンが多い放送回だ。またこの第44話と関連性の高いエピソードについても取り上げて構成している。
この記事を執筆するのにあたっては、『DTDA』という筆者が提唱する手法 ( 詳しくはこちら ) を用いて、そこから浮き彫りになった『映像力学』などを含めた制作手法・要素から表現されている世界観を分析・考察していく。さらに筆者の感想を交えながら、この作品の深層に迫っていきたいと思う。
○2016年・早春。彼の人生に " 分岐点 " が訪れる
2016年の早春、よねま診療所でも変化の兆しがある。診療所の青年医師である菅波光太朗(演・坂口健太郎氏)が、彼の指導医である中村信弘(演・平山祐介氏)から、そろそろ東京の医局チームに戻らないかという話が出てきている。
『菅波 : それは・・・ 僕がここを辞めるっていう意味ですか? 』
『中村 : 辞めるかどうかは、菅波先生次第ですよ。この診療所を手伝ってもらって、もう2年です。医局内でぼちぼち、ほかとキャリアに差がついてくる。私もさすがに、あなたの将来を犠牲にするつもりはないので。』
『菅波 : よく言いますよ。無理やり連れてきておいて・・・ 』
『中村 : 戻りたくないですか? あっ、もしかして・・・ 訪問診療に目覚めたとか?! 意外だな!! 』
『菅波 : 目覚めてはいません。』
『中村 : でも? まあ、いいや。向こうに戻るなら4月。代わりの若いやつをとっ捕まえなきゃなんないから、返事はなるべく早くしてくださいね。』
『菅波 : 分りました。』
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さて、過去の記事 [ 第7週・「サヤカさんの木」後編 ]でも取り上げたのだが、菅波の現在の立ち位置について振り返っておきたい。
まず菅波は東成大学医学部・呼吸器外科の医局に所属していることが示唆されている。医師免許を取得したのが2011年(24歳)と想定すると、この会話がされていると考えられる2016年1月末から2月上旬においては、おそらく菅波はまだ " 外科専門医 " の称号は取得していないことが考えられる(称号取得は2016年4月以降か)。
このような専門医の称号を取得するためには、NCD登録病院での一定数の症例数や手技数が必要となる。要するに、よねま診療所での診療活動では、菅波は症例数や手技数が稼げない。このことを中村は『医局内でぼちぼち、ほかとキャリアに差がついてくる』と語っているのだ。
指導医の中村が " 呼吸器外科専門医 " と " 医学博士 " の称号を取得しているため、菅波も " 外科専門医 " の称号を取得後は、いずれはそれらの称号の取得を目指していることは想像に難くない。
しかしだ・・・ よねま診療所での診療活動をこのまま続けていくことは、それらの称号の取得の足枷にもなっていくため、それを心配した中村は、菅波を東京の医局チームへと戻そうと考えているのだ。
それで中村は、菅波に東京の医局チームに戻る話をすれば " 喜び勇んで戻っていく " と考えていたようだが・・・ 彼の表情は浮かない。だからこそ中村は、
『戻りたくないですか? 』
と聞いたのだろう。菅波としても今後の医師としてのキャリアを考えれば、東京の医局チームに戻るのがベストであることは重々承知しているはずだ。しかし・・・ この登米という地で " 何か " を掴みつつある。
そして、この後 " 百音の心の傷 " を目の前にした時に・・・ 菅波は医療従事者として最も大切な " 何か " を身に付けていないことを突き付けられるわけだ。そのことで彼は医師として分岐点で・・・ 大きな決断をすることになる。
○ " ご都合主義 " と揶揄する前に・・・ 視聴者・鑑賞者のリテラシーが試されている
2016年3月、気象予報士の資格試験の合格を隠し、不合格だったとウソまでついていたことを新田サヤカ (演・夏木マリ氏)から咎められた主人公・永浦百音(モネ 演・清原果耶氏)。菅波にも促されたこともあって、百音はサヤカに詫び、彼女としっかりと向き合うことを決意する。そこで百音は、サヤカが " 仕舞の稽古 " をしている能舞台へと出向く。
初めて能を舞うサヤカを目にした百音。その荘厳な世界観に心を奪われているようだ。
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仕舞を舞い終わった後、ようやくサヤカは百音に話しかける。
『サヤカ : ふ・・・ どうだった? 』
『百音 : カッコよかったです。 』
『サヤカ : でしょう。ふふふふ・・・ 』
さて皆さんはこのシーンを最初にご覧になった時に、どのようにお感じになりましたか? 筆者は初見の時は、背景に潜むシーン設定がどういったものなのか、いろいろと気になってしまった。
まずストーリー展開としては、百音がサヤカから咎められ、菅波から彼女と一度しっかりと話し合うようにと促された2016年3月10日の夜から、いきなり別日の能舞台のこのシーンに飛んでしまったため、
[ 2016年3月10日の夜は、百音は下宿先のサヤカの家に帰ったのだろうか? ]
[ 百音がサヤカの家に帰ったのであれば、夕食前に一応はサヤカに詫びを入れたのだろう・・・ しかし食事中は二人とも気まずかっただろうなぁ・・・ ]
といったようなことが、まず気になってしまった(苦笑)。そして、別日の能舞台のシーンは何時なのか? こういったストーリー展開を " ご都合主義 " と揶揄する見方もあるのだろうが・・・ 筆者からすると、そもそも " ドラマツルギー " とは、そのようなものだろうと思うのだ。
要するにドラマはあくまでもフィクションの世界であり、登場人物の日常をすべて説明できるものでもないし、また説明する必要もないのだ。もっと言えば、シーンとして描かれない部分は " 視聴者・鑑賞者のリテラシーに委ねている " と言っても過言ではない。
説明されていない、シーンとして描かれていないから " ご都合主義 " と揶揄する人と、説明されていない、シーンとして描かれていない部分を、自身のリテラシーによって分析・解釈する人・・・ どちらがクリエーティビティが高いかは、このシリーズをお読みの方々は既にお分かりだろうと思う。
それでこのシーンの間の描かれなかった部分を、筆者のリテラシーによって分析・解釈してみた。
○能舞台のシーンの日付は2016年3月11日が妥当
能舞台のシーンの日付は、サヤカから咎められた翌日の2016年3月11日だと思われる。その理由としては、この問題を翌週まで持ち越すことはとても考えにくいためだ。
またこの日は、実際に金曜日で平日となっている。この後のシーンでは、百音とサヤカは森林組合の事務所に出向き、勤務する職員の様子も描かれているため平日であることがわかる。したがって能舞台のシーンと森林組合の事務所のシーンが同日であることに矛盾は無い。
さらに言えば能舞台のサヤカとのやり取りの後に、百音は森林組合に出勤したというのが自然の流れと考えられる。
○どのような経緯で百音が能舞台へと来ることになったのか?
サヤカから咎められた日、百音は下宿先のサヤカの家に帰って、一旦サヤカに詫びを入れた。その際にサヤカから「明日の朝、私は能舞台で仕舞の稽古をするから見に来なさい」と言われた可能性が高い。
○平日にも関わらず・・・ 百音の勤務はどうなったのか?
前日に百音が任されていた " ヒバの木の保管プロジェクト " を無事に終わらせていたこともあり、この日は半休を取った可能性が高い。サヤカ自らが課長の佐々木翔洋(演・浜野謙太氏)に電話をして、「百音に見せたいものがあるから、明日の百音の勤務は半休にしてほしい」と掛け合った可能性も考えられる。
○能舞台までの百音の移動手段は?
このシーンでは、百音がサヤカよりも遅れて能舞台に着いたように見える。実は百音の下宿先のサヤカの家から能舞台までの距離は比較的近く、自転車でも余裕で移動できる範囲であると思われる。したがって百音は自転車で、サヤカはクルマで移動したため、百音が遅れて到着した可能性が考えられる。
またその後に百音は森林組合の事務所に出勤し、サヤカも付き添っている。したがって仕舞の稽古後は一旦、二人共にサヤカの自宅に戻って百音は自転車を置き、サヤカのクルマに同乗して百音が事務所へと出勤した可能性が高い。
といった解釈が最も自然で矛盾のないシーン設定だと筆者は考えるのだが・・・ 皆さんはどのように考えますか?
そしてサヤカが百音に " 仕舞の稽古を見に来るように " と言ったのは、当然ながらサヤカの生き様や死生観といった『サヤカ・イズム』を、仕舞を通じて百音に伝えたいという思いと・・・ 実は " もう一つ重要な狙いがあった " と筆者は目論んでいる。
○彼女の " 優しさと愛情の哲学 "とは・・・ 『サヤカ・イズム』の正体は、いったい何だったのか
サヤカは仕舞を舞い終わった後、百音に " 舞を舞う意味と意義 " を語り出す。
『サヤカ : 舞を舞うことはね、能では物事の " 陰と陽を整える " ことを意味すんの。" 陰陽 " とも言うわね。』
『百音 : " 陰と陽 " ですか・・・ 』
『サヤカ : " 陰と陽 " のバランスが悪いと、この世界全体が不安定になんのよ。』
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さて、サヤカが百音に人生における重要な教えを授け、未来へと導くこのシーン。やはりここも、全120話の中でも非常に肝になるところであり、非常に象徴的なシーンと言えるだろう。
このようなシーンでは『映像力学』的に考えると( 詳しい理論はこちら )、百音が尊敬する人物、上位の人物、力量が上の人物、あるいは " 教えのようなもの授けるシーン " では、その人物が上手側に配置されるわけだ。例えば、第7週・33話「サヤカさんの木」での、気象予報士の朝岡覚(演・西島秀俊氏)が百音に教えを授けるシーンなどが挙げられると思う。
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上記の百音と朝岡のシーンと同様に、この百音とサヤカのシーンでも教えを授けるサヤカが上手側に配置されるべきだ。しかし、そうなると百音が上手方向を向いてしまうことになり " 過去を見つめている・ネガティブ思考 " という意味合いを映像に持たせてしまうことになる。
やはりこのシーンでは " 百音が未来へと導かれていく " といった印象を持たせたいため、映像表現としては一筋縄ではいかないところが、演出家の頭の悩ませるところだろう。
それで、 " 百音が未来へと導かれていく " ということを表現するためには、やはり彼女が下手方向に向いている映像が欲しい。そうなると百音を上手側に配置して、サヤカを下手側に配置しなければならない。
この " 百音に教えを授ける " ということと " 百音が未来へと導かれていく " ということは『映像力学』的には相反する要素のため、一番手っ取り早いのが、イマジナリーラインを越える " ドンデン返り " を利用することなのだが・・・ この手法は・・・ 使いどころによっては " 暑苦しい表現 " 、" わざとらしい表現 " といった映像にもなりかねない危険性を孕んでいる。
現にこのシーンでは " ドンデン返り " を起こすカットが一つも入っていないということが、その証拠だと思う。要するにこのシーンでは、出演俳優の演技だけで魅せたい。奇をてらったカット割りは、その演技の足を引っ張ってしまう・・・ だからこそ、シンプルな映像表現にこだわりたいといった演出家の哲学が反映されているのだろう。
とは言っても・・・ やはり百音がサヤカから " 人生における重要な教えを授けられる " という印象は持たせたい。そこでサヤカを能舞台の上に配置し、彼女が百音よりも高い位置にいる映像を提示することで、" 人生における重要な教えを授けるシーン " ということも、この1カットで表現することに見事に成功しているのだ。この作品はこういった演出手法が本当に巧みだと思う。
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それでこのシーンでは、サヤカが " 舞を舞う意味と意義 " を語り始めるのだが・・・ 皆さんはこのセリフが唐突だった印象を持ちませんでしたか? もちろん、このセリフがこのシーンの肝になっていることは、皆さんもお感じになっていることとは思うが・・・ そこで少しこのセリフについて、深く考察してみたいと思う。
さて、なぜ百音はサヤカに気象予報士の資格試験の合格を隠して、さらに不合格だったとウソまでついてしまったのか。なぜサヤカは資格試験の合否を、なかなか百音に直接聞けなかったのか。なぜ二人はお互いを思いやっているのにも関わらず・・・ どうして、すれ違ってしまっていたのか。注目してほしいのがサヤカの語った、
『" 陰と陽 " のバランスが悪いと、この世界全体が不安定になんのよ』
というセリフだ。過去の記事(第9週・1部)でも取り上げたとおり、これまで百音とサヤカはお互いを思いやり、" 相手にとってのより良い未来とは何か? " ということばかりを脳裏にめぐらせていたわけだ。このお互いを思いやること・・・ 一見良いことのようにも聞こえるが、あまりにも過度になりすぎるとサヤカの言うところの " 陰と陽 " のバランスが崩れてしまうわけだ。
例えば、" 人のために " と自我を抑えて、どんなに他人に尽くしても、自分自身のことが疎かになってしまえば、いずれは " その献身 " も続けられなくなってしまう。筆者は『滅私奉公』は短期的には成立しても、長期的・永続的には成立しないと考えている。
要するにどんなに尊い献身でも、自分の生活や人生が成り立たなくては、絶対に継続は出来ないものなのだ。
しかし、百音とサヤカはお互いのことを思いやりすぎて・・・ 自分自身のことを考えることが疎かになり、それぞれの " 陰と陽 " のバランスが崩れていたわけだ。これが、お互いのすれ違いへと発展していった " 本質的な原因 " ではなかろうか。
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