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計算機は計画的ではなく、結果から演算法則に収束する。

年初めに、何を感じるかを言葉に落とすということを続けていると、年末あたりから潜在意識が準備を始めるのがわかる。
ただ、昨年に引き続き、あまり年末年始を感じることが少なかったように思う。

今年は温めてきたことが形となって現れてくる年になると、神社暦に書いてあった。
そしてそれをそのまま鵜呑みにして、後は準備してきたことに紐づけて、いいように捉える、というような都合のいい解釈を毎年している。
大凶のときは、自分以外の人にお願いする、みたいな。

そういえば、昨年年初めにTVチューナーが故障したことをきっかけに、テレビを見なくなって、これまで生きてきて初めてだろうテレビを見ない年末年始を過ごすこととなった。

と言っても、
YoutubeやらNETFLIX、Abemaといった配信系があるので、結果的にテレビモニタに垂れ流しながらの、なんら変わりのない正月になった。

ふと。
自分が何をしたくて生きているのか、みたいなことを考える瞬間があると、とたんにその考え方がチープで嫌気がさして、すぐに没頭できる何かを探すようにしている。ということに気づく。

つまるところ、テレビ代用の配信系に変わったことで、より年末年始の何もしていない、ただ食べて時間を過ごすことが際立って感じとられ、より自分の怠惰にフォーカスが当てられた結果、これが人間の致し方なさという堕落の共感を生み出すんだなと改めて気付かされた。

あぁ落ちる落ちる。
惰眠を貪るとはこのことだな。


さて。
2021年に作品創りに没頭したいと感じた年初めだったが、どちらかといえば散漫な一年だった。「時を待つ」と「間延び」を行ったり来たりというイメージ。

今年は、「計算機」かな。
見えないシステムが仕込まれたその端末に数値を入力し加減乗除する。
最後にイコールで締めくくると必ず何らかの答えが導き出される。
その答えから、また次のアクションを決めていく。
そんな一年になれたらと、感じている。

計算通りにいくかどうか、ということではなく、大切にしたいのはイコールの世界と演算システム。つまり現象と理法にフォーカスをあてたい。そこに至るプロセスを結果から導く逆算的な分析も交えながら、理法を感じ現象を起こす。
そこから風が吹き始め、まるで自然現象のような振る舞いになったら、それはもう自然なのではないかと思う。

そうか。文化とかそんな仰々しいものではなく、自然を作りたいのか。
誰も気に留めることなく、そこにある。
なのに無くてなならないもの。

生きた何かを遺す=Inheritance

これは自分自身のエゴであり、人類としての憂のようなものだな。

それぞれの感じている世界。
歴史や背景。育ってきた環境。出会ってきた人。
自分以外の何かによって作られた今の自分の価値観感覚感性思考。
それを否定せず俯瞰するセカンド自分。
さらにそれを俯瞰するサード自分。

救いがカタルシスにならないよう細心の注意を払おう。
でもたまにはそれもまた心地いい。酔い酔われ。

「どうせ間違っている。だから大丈夫。」

そんな風にして、今を生きていこう。
ゴッド・ブレス・ユー。

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