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街場の親子論

■書籍名 街場の親子論
■著者  内田樹・内田るん
 親子論。親子間の愛憎はどの親子にもあるものである。二人の往復書簡のやり取りを読み進めていると、書簡を通した「和解」がなされ、親子の距離が縮まっていく様子を感じられ、心温まるものがあった。
 親子には「和解」が必要なのかもしれない。そしてその和解は子どもが独り立ちしたのちでないと訪れないのかもしれない。親子は、屋根一つ下で暮らしている時は、距離が近すぎることで衝突が生じる。衝突は子どもの独り立ちを促すための必然的な儀式なのかもしれない。実家の居心地が良いといつまで経っても衝突が生じないかわりに、親子共々成熟の遅れを生じるのかもしれない。子どもが家をでていくということは、子ども自身の成長機会であるとともに、親に取っての成熟機会となるのである。愛憎にまみれながら一緒に暮らしていた存在が急にいなくなる。親は子どもがいるから「親」なのである。つまり、子供への愛憎を通して自分自身の存在確認や承認欲求を満たしていることが「親」であり、子どもが独り立ちをしてしまうことで、存在論的な確認作業ができなくなるのかもしれない。だからこそ、和解が必要なのである。物理的に距離をおいた親子が過去の記憶をすり合わせることで、記憶としての家族像を整理する。親が発言した何気ない一言が、子どもへの一生の影響をもたらすことがあったり、親の発言の真意を、大人になった子どもへ伝えることであったり、親子としての関係性からではなく、ひとりの人間と人間との間における関係性において対話をすることで、承認欲求の依存関係を断ち切り、市民的に成熟することが可能となるのである。こうして、親子は親子関係から社会的関係へと変化する。それは、和解という儀式を通過することで変化する、関係性の構造的変化と言ってもよいのかもしれない。
 本書における二人の文体の違い、熱量の違い、未来への無意識的な楽観・悲観的な気持ちなど、親子の間での違いがとても興味深い。生きてきた年代の違いという世代論に収斂させたくはないが、父である内田樹氏は基本的に快活で楽観的なアーティキュレーションである。高度経済成長期を少年期として過ごした、僕の親世代にある世代特有の加熱的なエネルギーを感じる。一方で娘の内田るん氏は、ものごごろがついたときにはバブルが崩壊しており、様々な新しい社会問題が顕在化する中で成熟してきた世代であり、基本的に悲観的で虚無的なニュアンスを感じる。僕としては、樹氏のスタンスに憧れるところがあるのと同時に、同世代である内田るん氏のような態度を、行間の中からしみじみと自分ごとのように理解できるところがある。
 そして、僕らの子どもたちの世代は、これまでの拡大資本主義社会ではなく、縮小資本主義社会を背景として人格形成を図っていくこととなる。つまり、「強く、早く、高く」の価値観から「弱く、遅く、低く」の価値観へシフトしていく中で成熟していくこととなる。これはこれで、地元を愛して弱者をいたわる相互扶助的な価値観が前景化してくる可能性があり、僕たち大人としてはむしろそのような、居心地のいい社会観を前景化させていかなければならないと思うところである。
 本書では、親子のコミュニケーションは3割程度の理解でよいと述べてられている。家族だから100%つながっているということはないのである。意見が合わなくても同居できるとか、同意できなくても困ったときに助け合えるとか、そういう関係性がちょうどいい距離なのではないかということである。そもそも意見が100%一致する他人なんて存在しない。自分の中でも日によって意見がコロコロと変わるわけで、他人とは意見が不一致となることを前提として考えるべきなのである。現代社会は、「絆」とか「チームワーク」とか「オールジャパン」とか「ワンチーム」とか、とにかく「善意に基づく同調圧力」が横行しやすい。精神科医の斎藤環氏も言っているが、このような「善意に基づく同調圧力」は、善意ということが建前となるため無意識のうちに受け入れてしまう性質があり、無意識のうちに個人の精神的負担となりがちになるとのことである。
 相互扶助という考え方は、まさに、「意見が折り合わないもの同士でも困ったときには助け合えるネットワーク」のことであり、親子の関係に限らず、社会ではそのような関係で人と程よい距離を保っていることがよいということである。
 本書でいわれているように、『日本人のメッセージでは、コンテンツよりも、それを差し出すときの発信者が「誰か」に対する親疎を示すことの方がたいせつなんだ』ということからも理解できるように、日本人は人との繋がりをコミュニケーションのメタメッセージとして確認することを求めがちである。僕自身もそいうところがあることを自覚しなければいけない。他者から嫌われないよう、攻撃回避的なコミュニケーションで、常に誰に対しても「僕はあなたの敵ではない。仲間である。」というメタメッセージを送る傾向がある。これは僕の生得的な習慣なのかもしれない。なぜそのような傾向を身につけたのか今後分析する必要があることはおいておくが、人から嫌われることを最も回避したくなる思考バイアスがかかり、コミュニケーションで優先していることといえば、まさに、他者との親疎の確認ということになる。少しはこの親疎の確認行為の呪縛を解き放って、ニュートラルな状態での対話ができるよう、今後は考えていく必要があるのかもしれない。
 

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