カッパなのに泳げない? できない=恥ずかしいと思っていた私がファンターネに救われた話
みもも、泳げないって知ってました?
おかあさんといっしょ(じゃじゃまる・ぴっころ・ぽろり世代としては「おかいつ」って言えない)の人形劇「ファンターネ!」に出てくるカッパの女の子、みもも。
4月の番組改編以降、ぶっちゃけずっと
と思っていた(いる)私ですが、先日の放送回、こんなセリフが聞こえてきて画面を凝視しました。
ええーーー?!どういうこと?
思わず釘付けになった私の耳に入ってきたのは、意外な言葉でした。口を開いたのは、ファンターネ島の長老・アンモさん。
あら、いいことおっしゃる。
これに勇気づけられたみももは、泳ぐ練習を始めます。アンモさんはこれにつきあい、みももを優しく励ますのでした…
わーーーー、アンモさーーーん!!
***
「できない」っていうのは今この瞬間にできないというだけのこと。ずっと「できない」かどうかは、みももが泳ぐ練習を始めたように、今やってみるかどうかにかかっています。
そしてアンモさんが言うように、できないことは恥ずかしいことじゃない。やってみてできなかったとしても、別にそれはそれでいいんです。
私はずっと、できない=ダメで恥ずかしいと思って生きてきました。
できない自分に対して感じるマイナスのエネルギーをバネに、できるようになったこともあります。
たとえば、フランス語。
大学の授業で、仏文学者のお嬢さんや在仏18年の帰国子女に囲まれていた私は、圧倒的な劣等感に苛まれていました。そんな自分を変えたい一心で、最終的にはフランスに留学。必死に勉強しました。
2年前に出産したときは、家事育児ができない自分=ダメで恥ずかしい、と思って苦しみました。
娘を泣き止ませることができない自分を責め、家事の得意な夫(ありがたいことに)みたいに手際よく美味しい料理の作れない自分を責め。
責めて責めて責め続けたけれど、「責めて奮起して乗り越える」というそれまでのパターンは通用せず、まもなく私は産後うつになりました。
事ここに至ってようやく私は、できない=ダメで恥ずかしいと考えて生きてきたことに気がついたのでした。
***
それから2年。思い込みを少しずつ手放して生きるのがずいぶん楽になった今、しみじみと思うことがあります。
できないことをシンプルに「私はこれが苦手」と事実として認識すること、言い換えると、できない自分を「許す」のではなく「認める」ことは、実はものすごく大事なんじゃないか。
「許す」には、一回価値判断が入ります。何かが気に入らない、好ましくない、あるいは正しくないと思うけれど一旦不問にする、みたいな。
一方で「認める」には、価値判断が入っていない。気に入らない、好ましくない、正しくないなど、どう思うかは一旦横に置いて「そういうもの」と思う。「受け止める」に近い。
できないことに対して「ダメで恥ずかしい」と価値判断を挟むと、かつての私のように自分を責めてしまって苦しくなります。
でも、シンプルに「できない」と認めてみたら、軽やかに「じゃあどうする?」に移れると思うのです。
今できないことを自分で身につけるのが楽しければ、そうすればいい。
それがどうしようもなく苦しい、あるいはそれじゃ目の前の物事が回らないなら、人の力を借りたっていい。
どちらの自分もOKだし、どちらを選ぶにしても、できない自分に価値がないわけじゃない。
完璧な人間なんて1人もいないんだから、何もかもみんなと同じようにできる必要はない。そして、自分にしかできないことは何かしら必ずある。
アンモさんの言葉に、完璧主義だったあの頃の私が救われたような、そんな気がしたのでした。
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