見出し画像

必読!!研究者に刺さる『詩』シリーズ第一弾!宮沢賢治、春と修羅『告別』

こんにちは、海外で現役ポスドク(生命科学系)をしておりますポス山毒太郎と申します。このnoteはあくまで毒太郎の体験を元に、偏見に基づいた感想を語っていく場です。ですのでほとんど統計値などは出てきませんので悪しからず。

さて前記事では、筆者の11回-20回の記事を自分でレビューしました。もし筆者のことを最近知っていただいた方は、こちらで各記事を簡単に説明していますので、気になった記事を読んでいただければと思います。どの記事が人気だったかなども書いてあります。

また最近自己紹介記事も更新したので、ご覧いただければと思います。

皆さん、いきなりですが好きな詩はありますか?詩なんて普通に暮らしていたら中学高校の国語でしか出会わないとと思います。今記事では、研究者に刺さる詩として、筆者が最も好きである詩(というかこの詩しか知らない)である宮沢賢治「春と修羅」より「告別」を、ぜひ皆様に紹介していきたいと思います。

この詩ははっきり言って研究者全員にブッ刺さると確信しています!勿論研究者以外の方にも何かに打ち込んだ人や、仕事等で苦労した方には刺さる詩だとも思います。漢字の難しいところはふりがなも振ってみたので、まずは一文一文噛み締めながら朗読することをお勧めします。


おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい

その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫(ふる)はせた

もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう

泰西(たいせい)著名の楽人(がくじん)たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革(ひかく)の鼓器と
竹でつくった管(くわん)とをとった

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大低無くすのだ

生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ

云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ

恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる

おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

 


いかがでしたでしょうか。これは宮沢賢治が教師を辞めるときにある学生に向けて書いたそうです。

筆者は、修士課程に入った頃位に、この詩に出会いました。そしてこの「宮沢賢治の厳しさと優しさ、暖かさのハーモニー」に普通に泣きました。
この詩を読んだ筆者は、今思うと恥ずかしいですが、自分の事を勝手に「1万人に5人」に入っていると認定して、その輝きを失わないように、『みんなが町で暮らしたり、一日遊んでいるときにお前は一人であの石原の草を刈るんだ』と修士課程、博士課程と研究に明け暮れたことは今でも覚えています。

辛い時も『力がにぶって、再び回復できないならば、俺はお前をもうみない』という彼の厳しい言葉を思い出して頑張っていました。

『少しぐらいの仕事ができて、そいつに腰かけてやるようなそんな多数を一番嫌に思うのだ』というのもかなり厳しいですが、多くの研究者に刺さるはずですし、肝に銘じるべきだと思います。山中伸弥先生の「阿倍野区(あべのく)の犬」の話にも通ずるところがあります。

初めてこの詩に出会ってから十年以上経って、筆者は現在、共働き研究者である配偶者、子供を持ちながらなんとか研究を続けています。そんな今、改めてこの詩を見ると、学生の頃あったかもしれない「才や力」はもうどこかに行ってしまったかもしれないなぁと感じています。

現在の筆者は、確実に「生活に削られている」ことを自覚しているからです。

ですが筆者は「自分は生活に削られていて、もう今の自分に「才や力」はほとんど残ってないかもしれない」と「自覚している」ことも大事だと思っています。生活に削られすぎて「才や力」を失っていること自体に気がついてないくらいに消耗している研究者も多いと感じるからです。

そういった意味で昔から今にかけて筆者にとってこの詩が持つ意味は変わってきていますが、筆者にとってずっと大事な詩です。

原著や他の詩が気になる方はこちらをどうぞ

ちなみに筆者は別に詩を普段読みません。この詩には『編集王』という漫画で出会いました笑。この漫画はやたら泣かせにきますが、筆者はまんまと泣かされます。話によってかなり面白いかそうでないかの差はかなりありますが、特にマンボ好塚編が好きです。興味がありましたらぜひこちらも読んでみて下さい。

興味がある方は一巻からどうぞ(この詩は一巻にはありません)。

海外からも日本のアマゾンアカウントでKindle本は気軽に買えるのでおすすめです。日本のアマゾンにアクセスしたいときは「アマゾン」、米国のアマゾンにアクセスしたいときは「amazon」で検索するのはあるあるです。

繰り返しとなりますが、筆者はこの詩しか知りませんので「研究者に刺さる詩シリーズ第一弾」としましたが次回はありません。

ちなみに編集王は漫画アプリ「マンガワン」でたまに期間限定で無料で読めるので、こちらを待ってもいいでしょう。ちなみにちなみにですが、日本の漫画は大体0時に更新されますが、こちらは時差の問題でもっと読みやすい時間に更新されるのが、留学のメリット?のひとつです。

皆さんの研究者に刺さる詩がありましたら、コメントでぜひ教えて下さい。もしかしたら別記事で紹介させていただくかもしれません。

それではしんみりしたところで現場から「生活に削られながらも、それでも残った力を保とうとしている」ポス山毒太郎でした。「noteやってるから力なくすんや」というツッコミは無しでお願いします。それ、効くんで。

*宮沢賢治の作品は一応著作権フリーになっているとのことですが、どこかからクレームが来ましたら、詩の部分は削除します。

いいなと思ったら応援しよう!