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俳句のいさらゐ 巛⏅巛 芭蕉が『奥の細道』に載せなかった旅中吟③「小鯛さす柳涼しや海士(あま)がつま」

この俳句も「曽良書留」に載り、『奥の細道』でははずされた。何処で詠んだ吟なのか、場所は特定されていないようだが、酒田から金沢への、日本海沿いの漁村集落であることは確かだ。

俳意は、こういう読みになるだろう。
✪ 風流を意識しているわけもない漁師の営みである小魚の天日干しにおい
   て、江戸の町暮らしの遊び人から見れば、鯛の赤と柳の緑の映し出す対
      照の彩に、清涼の深い趣がある。その作業に余念のない漁師の女房のし
      ぐさまでもが、涼やかであることよ。
まさに嘱目吟として面白いと思うが、芭蕉はこの俳句を捨てた。

それはなぜか。
『奥の細道』俳句を貫く大きな主題が、主観を強く出すことにあるからだ。この俳句では「涼しや」と、季語に主観を重ねているが、強い感情表現ではない。
主観表現のことばを用いず、叙景のみのかたちで詠んだ俳句は『奥の細道』では少数である。読み直してみると、
 ■ ① 蚤虱馬の尿する枕もと
 ■ ② あつみ山吹浦かけて夕すゞみ
 ■ ③ 波の間や小貝にまじる萩の塵
くらいのものだ。

上に挙げた俳句を『奥の細道』に採ったのは、これまでのnoteの 記事で述べて来たように、芭蕉がそれぞれの俳句の裏に、下に列挙するような強い思いをこめているからだ。たんなる叙景に終らないのだ。
⊡ ① 旅ゆく身には、何よりの恩恵である馬への親しみと和やかな思い
⊡ ② 尊敬する行基上人ゆかりの、あつみ山の地名を詠みこみたかった思い
⊡ ③ 西行も訪れた浜で、長い旅の記憶が、花屑のように淡く去りゆかんと瞬いている思い

それらに比べてみれば、「小鯛さす」で詠んだ海士にも海士のつまにも、何か特別に深い思い入れがあるわけではなかろう。つまり、俳句を詠ませた発火の熱量の点で、『奥の細道』に採った俳句よりは劣るのである。

象潟古図 ( 部分トリミング ) 年代作者不明   本間美術館蔵

他の旅中吟に目を向けてみると、「夕に雨止て、船にて潟を廻ル」の前書きにある象潟での作、
 ■ ゆふ晴れや桜に凉む波の華
も『奥の細道』でははずした。
象潟を訪ねることが、いつからか心に棲みついた芭蕉の宿願であり、幾度も繰り返した幻想から、すでに芭蕉の心中には、この世ならぬ美しい情景が出来ていて、それを表現するのに、西施は、選ぶのに抵抗のない言辞であり比喩だった。その思いの結晶「象潟や雨に西施がねぶの花」と並べたとき、この俳句もまた、芭蕉の思いの丈には及ばなかった、ということだろう。

『奥の細道』中、現在圧倒的に読む者を引き付けるのは、
 ■ 五月雨をあつめて早し最上川
 ■ 閑さや岩にしみ入る蝉の声
 ■ 田一枚植て立去る柳かな
などであろう。いずれも強い主観表現に、芭蕉の人生哲学に届く観照があり、さらには神秘感も備わっている。

本論とは関係ないが、わたしの note の芭蕉作品解釈コンテンツを例にとれば、他を引き離してビュー数が多いのは、なぜか曽良を相手に詠んだ
  ■ 今日よりや書付け消さん笠の露
であり、続いては
  ■ 荒海や佐渡によこたふ天河
である。
『奥の細道』の中で、人を思う気持ち ( 感謝とシンパシー ) が表れている点で、「今日よりや」の右に出る俳句はないとわたしは思っているが、note読者も、共感してくれているのだろう。
なお、最も読まれていないのは、
 ■ 草の戸も住替る代ぞひなの家

奈呉の浦風景 1974年頃

本論に戻ろう。
「荒海や佐渡によこたふ天河」とか「わせの香や分入右は有磯海」など、海浜をうたって「萬葉集」の柿本人麻呂ばりのとらえ方を示す日本海沿いの吟詠のなかに置けば、「小鯛さす柳涼しや海士 ( あま ) がつま」は、力の抜けたスケッチであるゆえに、後半部の構成上なじまなかったということだろう。
                                         令和6年10月             瀬戸風  凪
                                                                                             setokaze nagi


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