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俳句のいさらゐ ☬◙☬ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十一。「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」

湯殿山での吟、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」は、さっと読み飛ばされてしまう俳句だろう。句の姿は伝統的に、端正に整っているから、つまらない俳句に見えて来る。
湯殿山神社を参拝した者は、掟として見たさまを語ることは許されない。今その秘儀を賜っているありがたさに涙がこぼれる、という意味だと諸本は解釈している。
しかし私には、そういう、説明に堕しかねないことを詠んでいるだけなのかという疑問が大いにわく。

その疑問を持って俳文の方を詠むと、参道の山道で遅桜の花に心を奪われたこと、その感激の大きさを、行尊僧正が詠んだ遅桜の和歌を引き合いにして述べており、こちらが、この俳句の前書きに、つまり吟詠の主旨を示唆するものになっている!と感じられる。

岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣て、此山 中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。
 語られぬ湯殿にぬらす袂かな
 湯殿山銭ふむ道の泪かな   曾良

遅桜について語った部分を現代文にすれば、こういうことだ。
 岩に腰かけてしばしやすらっていると、三尺ばかりの桜の蕾が半ば開いて
 いるのが目に止まった。降積の雪の下に埋もれても、春を忘れず開く遅桜
 の花の心がいじらしい。
 炎暑の季節に梅花と会うような、あろうとは思えないことだ。行尊僧正の
 山中に桜を見た歌がしみじみと思い出されて、なおさら感慨深い。

文中で「行尊僧正の歌」と言っているのは次の歌である。
後世 ( 今日に至るまで )、類歌が詠まれ、また語句を引用した和歌がいくつも見られ、江戸時代にはかなり知られていた歌である。

もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
               『金葉和歌集』雑521

この歌は、『行尊大僧正集』( 流布本=書き写されて世に広くつたわった書物 )では、こういう前書きが添えられ二句合わせで出て来る。

風に吹き折られて、なほをかしく咲きたるを
 折りふせて後さへ匂ふ山桜あはれ知れらん人に見せばや
 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし

『行尊大僧正集』より

こちらの方が、「もろともに」の歌の情景の彫りを深くしている。

この歌を詠んだ天台座主の大僧正行尊は、白河院、鳥羽院の熊野御幸の先達も高齢になるまでしばしば勤めたという人だ。青年期・壮年期の修行中に詠んだ和歌が多く、「もろともに」は、大峰山での修行中に詠んでいる。詠みぶりは、簡潔であり、率直。仏道修行の思索の中で得た実感に裏付けられている。

行尊は、芭蕉が心の師とした西行の、そのまた師といえる歌人であり、西行の名は尊敬する行尊の名にあやかっているだろうと思う。芭蕉は、西行の詩の本質を「さびしさなくばうからまし と西上人 ( 西行 ) のよみ侍るはさびしさをあるじなるべし」と書いている。
後進の西行が多くを学んだ行尊の和歌を、芭蕉は西行の和歌とともに、愛誦していたのだろうと想像できる。
芭蕉が「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」を詠んだ思いにつながると私が思う行尊の和歌は、次の一首。

 世をそむき分けゆく野辺の露けさにとまらぬものは涙なりけり
                     『行尊大僧正集』より

上の歌を、芭蕉が知っていたか、あるいは心に留めていたかどうかはわからない。しかし、行尊は修行に打ち込みながらも、そして、決して不遇の身ではない( 行尊は皇統の身分 )にもかかわらず、つねに身をさいなむ無常感を詠んでいる。たとえば次の一首。

 心こそ世をば捨てしかまぼろしの姿も人に忘られにけり
                     『金葉和歌集』587
【歌意】
 心こそは俗世を捨てたけれど、幻のような現身だけは、まだうき世に残っ
 ている。しかしそれも人からは忘れられていることだ。

芭蕉が行尊の和歌に親しんでいた証になる例として、次の行尊の和歌と芭蕉の俳句を挙げる。

数ならぬ身をなにゆゑに恨みけんとてもかくてもすぐしける世を  行尊
                      『新古今和歌集』1834
 【歌意】
 物の数にも入らない我が身であるのに、何故それを恨めしく感じて生きて
 来たのだろう。振り返ってみれば、どのようにしてでも、ともあれ生きて
 こられる世であったのものを。

 『新古今和歌集』より 歌意解釈は筆者による

 尼寿貞が身まかりけるとききて 
 数ならぬ身とな思ひそ玉祭り    芭蕉

松尾芭蕉「有磯海」より

行尊の自問を、亡き寿貞の魂への呼びかけに転じた、本歌取りの趣がある俳句だろう。

湯殿山での俳句に話を戻す。
月山、湯殿山の章は、『奥の細道』の中では長文で、俳句も芭蕉三句、曽良一句と力を入れていて、いわば紀行中、象潟の章とともにピークをなす部分になっている。
ゆえに「ぬらす袂」 ( 涙をこぼしたことであったの意 ) は、創作の観点を刷新しようと『奥の細道』の旅を思い立ち、風雨に打たれながらも辛苦を重ね、湯殿山までついにやって来た、という感激を表現していることが第一義であるが、そこで思いもせず出会った「ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくら」に、自分のこれまでの俳諧の歩みを振り返ると同時に、新しい境地を希求する苦難が報われて花開くほのかな予感を抱いて、その心情からの涙であることを第二義として表現しているのだろう。
その思いは、行尊が、山桜に行尊自身を重ねて「もろともに」と詠んだ歌の思いに、ぴたりと重なるものであったからなのだ。

つまりこの俳句は、見たさまを「語られぬ湯殿」ゆえに、その尊さに対し濡らす袂であるとともに、己の心の内のみの葛藤として、人には【語られぬ思い】を、残雪の中の遅桜に触発されて濡らす袂でもある、と解釈できる。
芭蕉が引いた行尊の歌の下の十二音「花よりほかに知る人もなし」は、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」のあとに隠されているのを教える書き方だと思う。それを前書で触れて、暗に示したと言える。

芭蕉は、上に掲げた行尊の歌
「世をそむき分けゆく野辺の露けさにとまらぬものは涙なりけり」
に通ずる胸中を、『笈の小文』冒頭にこう述べている。

《本文》
百骸九竅の中に物有、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。 終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。

【文意解釈】
この身体と精神を、あたかも薄い葉のように風で破れてしまう羅 <うすもの> のごとき輩⇒風羅坊と仮に称する。この風羅坊は俳句を好むこと久しく、生涯の営みとなった。
あるときは、飽きて俳諧などやめてしまおうと思いもしたし、ある時は江戸で俳諧の宗匠として、その人気を他の俳人たちと競う気持ちから、ああしたいこうしようなどと心を煩わせ、日々忙殺されて暮らした。
また昔日には立身出世も願ったが、仕官したものの出世は叶わず、しばらくの間禅学問をすれども、俳諧への執着からその道を貫くことも出来ず、結局は他に才能も芸もなく、俳諧にとらわれて、ただそれだけにかかわって生きて来たのである。

松尾芭蕉『笈の小文』より 文意解釈は筆者による
 

行尊のものの見方、感じ方に魅せられていた芭蕉は、長く胸中にあった愛誦の和歌、「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」の心境が、旅の絶頂といえる月山、湯殿山でありありと感取されたのである。それは天啓であった。

曽良もまた、( 文人には、知られていて当然の有名な歌であるから ) この和歌を知っているのだが、その場で芭蕉の口から行尊の和歌を聞いたであろう。
曽良の俳句、「湯殿山銭ふむ道の泪かな」は、遅桜を見つけ感涙する芭蕉の姿を見て、そして芭蕉が諳んじている行尊の和歌を芭蕉の声で聞いて、師の俳句に重ねて、泪と文字に起こして詠みこむのが必然であった。

「銭ふむ道の泪」とは、うき世では、押し戴いて拝まんばかりに尊ばれる銭が、ここでは石くれのように用なきものとして踏まれてゆく。ここは俗を脱するために来る場所なのだ。師は、まさにその思いに満たされておられる、私もまた師のそんな心に染められている、という感懐から出て来た措辞である。

この俳句もまた、説明に堕しかねないことを詠んでいるだけの俳句ではない。さっと読み過ぎてしまいそうな師弟の相似た二つの俳句が並ぶ理由は、歴然としている。二人の思いは一つであっただろう。

                                                                   令和6年6月       瀬戸風  凪
                                                                                                    setokaze nagi




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