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俳句のいさらゐ ⋄♾⋄ 松尾芭蕉『奥の細道』その二十八。「風流の初めやおくの田植うた」
とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。
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「風流の初めやおくの田植うた」の須賀川の章を読むと、道行き文を連想する。道行き文の典型は、『平家物語』に見ることができる。
『平家物語』巻第十 「海道下(かいだうくだり)」を例に引く。
相坂山 ( あふさかやま ) を打ちこえて、勢田 ( せた ) の唐橋駒もとどろにふみならし、雲雀 ( ひばり ) あがれる野路の里、志賀の浦浪春かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北にして
たどり行く順に過ぎる土地の名、名所の名を並べ、調子を整えて、文に勢いをつけるのが道行き文である。
芭蕉が、須賀川の下りで道行き文を思わせるような書き出しにより、「風流の初めやおくの田植うた」につなげているのは、次のことを意図しているのだろう
田植うたが、道行唄であったとは思わないが、芭蕉は田植うたに土俗歌謡の味わいを覚えて聞き入ったのだろう。たとえば奥羽で唄われていて今日に伝わる一例として、「伊勢に七度高野に八度出羽の三吉月まゐり」
そして、それまでの各地漂泊の旅どこかで耳にしたことがある道行唄の味わいを模した表現を、前文に持ち込んだのではないだろうか。方言でもある田植うたの内容は、その場では理解できなかったことだろうが、民俗歌謡の響きの中に、そこはかとなく平曲 (「平家物語」に節をつけた語り ) を連想したと考えてみるのも面白いだろう。
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次に風流の解釈。『奥の細道』には、風流ということばが、須賀川の章よりあとにも出て来る。
爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、 芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、 爰に至れり
【現代文での意訳】
古くからこの地に俳諧は根付き、今も俳諧が隆盛であった昔を慕っている。また蘆角 ( ろかく )一声 = 蘆 ( あし ) を吹く風が笛の音を響かせているような田舎ゆえにこそ、俳諧が人々を慰めるのだけれど、指導してくれる者もいない鄙では、俳諧の古きも新しきもよくわからず、俳諧の道に迷うばかりなのです、と言われて依頼されたので、私(芭蕉)は俳諧一巻を巻いたことである。
見るまま感ずるまま、自分だけのために、俳諧の新境地を求めることが目的の漂泊であったのに、俳諧の有難さを説かれて、自分の門人でもない者たちとともに俳諧を巻くという私の思いにもなかった旅になったのである。
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この文から、芭蕉が「風流の初めや」と詠んだ〈風流〉の意味を考えれば、
さまざまな生業のそれぞれの暮らしや、意にままにゆかない天候の万象の中に、ほっと心和むものが垣間見えるのであって、それに気づくことは旅の小さな愉悦だと知ったことを示すだろう。
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「呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ」(『奥の細道』草加の章のことば ) に至りたいと望み、歌枕の地に立って、感慨に浸ることを愉しみとするのが旅の核心であったのだったが、白河の関を越えてからの俳句、たとえば「笠島はいづこ五月のぬかり道」「五月雨の降りのこしてや光堂」「這ひ出よかひやが下のひきの声」「あかあかと日はつれなくも秋の風」などいくつもの俳句が、上に述べた視点で詠まれていると感じられる。
令和6年7月 瀬戸風 凪
setokaze nagi