俳句のいさらゐ ♊ ♊ ♊ 松尾芭蕉の「はあ ❔ どういうこと俳句」 勝手にランキング
以下の芭蕉の句が、説明を読まずに、ははん、そういうことね、といくつかでも見当がつく人は、相当文化文芸の素養が高い。わたしは文学全集の芭蕉集の巻の解説を読まなければ、どれも理解できませんでした。
🔲🔲🔲 堺町ってどんな町❔
10位.雨の日や世間の秋を堺町 延宝6年 芭蕉35歳
答は色街。そうとわかると、おおよその句の意味は見えてくる。
堺町の「さかい」は、秋のさびさしさもここまでで、ここからは賑わいの場所の境でもあるという語呂合わせにもなっている。
🔼🔼🔼 世間口、風の口❔
9位.花にいやよ世間口より風の口
寛文年間 宗房と名乗った時代 ( 二十代 )
隆達節に次の句がある。「ひとり寝もよやの、あかつきの別おもへば」「ひとり寝はいやよ、あかつきの、別ありとも」
花にいやよは、それをもじっているという。隆達節は戦国期から芭蕉の時代、元禄、宝永の頃まで流行していた。
世間口は世間のうわさ。風評。風の口は、風神の風袋の口。
花が風に散るを惜しむという文芸には定番の趣を、歌謡の謡いぶりを取り込んで、戯画仕立てにしたわけだ。
⏫⏫⏫ 魂にねむる❔
8位.鶯 ( うぐひす ) を魂にねむるか嬌柳 ( たはやなぎ )
天和3年 芭蕉40歳
何となくわかる。でも何かしっくりこない句だ。やはり解説書をめくってみる。こういう意味だった。
矯柳はしなやかな柳の意。春の演出者であり、主役と云っていい鶯の魂が乗り移ったように、柳の枝がかすかに揺れて、その姿は眠っているようだ。
⏺⏺⏺ 何があわれ❔
7位.梅が香に昔の一字あはれ也 元禄7年 芭蕉没年51歳
哀れなのは昔を思い出すこと、つまり追憶。それを「昔の一字」といった。大垣の門人梅丸の息子の死に対する感懐を詠んだ句。
春は巡りきて、梅の香りがあたりに満ちているのは、かえってつらいことだ。亡くなった子はもう戻っては来ないのだから。親として子を見ていた時間が、全て昔のことになってゆく。なんと無常なことだろうか。
🔽🔽🔽 盗まれた鶴❔
6位.梅白しきのふや鶴を盗まれし 貞享2年 芭蕉42歳
調べてみると、梅妻鶴子( ばいさいかくし ) という言葉がある。隠棲した人が、妻に見立てて梅を愛で、子を見るような気持ちで鶴を飼う風流な暮らしぶりを表現している。中国・北宋時代の詩人、林和靖 ( りんわせい ) の故事を前提にした句。つまり、鶴と梅が組み合わせになった風雅ということだ。
鶴の絵の掛け軸を見たら、梅はどこかにないか探すのが軸の愉しみ方という。当時の文化人たちには通ずる、教養のひとつだったのだろう。
梅は美しく咲いていた。しかし鶴はいない。きっとこれは昨日盗まれたせいでしょう、風流人のあなたのことですから、鶴を飼っていないという落ち度はありますまいから、という諧謔の句なのだ。門人、三井秋風という人の館を訪れての句である。
秋風は、わかっていますよと「杉菜に身擦る牛二ツ馬一ツ」と脇句をつけている。こう詠むとややしつこい気もするが、諧謔で応じて面白がっている。
高踏な遊びもさらりと行っている芭蕉とその門人たちである。
⏭⏭⏭ 墨子に関する故事を言っているようだが❔
5位.かなしまんや墨子芹焼を見ても猶 延宝8年 芭蕉37歳
これは全くのお手上げ。調べると、こんな逸話に基づいている。
墨子は白い絹地が彩色されてゆくのを見て悲しんだという。そんな墨子だから、白い芹が焼かれて色がついてゆくのを見ても悲しむのだろうか。
鴨の肉などを焼いて食べる際に、匂い消しのため、芹の葉を加えた料理が「芹焼」。つまり、こんなご馳走をいただくのは、われわれには嬉しいばかりのことだが、墨子なら悲しい顔のひとつも見せるかもしれないという諧謔の句。
🔳🔳🔳 愚に暗くって何❔
4位.愚に暗く棘をつかむ蛍哉 延宝9年(天和元年) 芭蕉38歳
「愚に暗く」とは己の愚が己では分からないことをいう。人とは蛍を捕ろうとして、蛍に手を伸ばせば、思いに反して目の前の棘をつかむものだよという、多分に自戒をこめた芭蕉のエピグラム ( 寸鉄詩 ) でありアレゴリー ( 寓喩 )
蛍を儲け話に喩えるとなるほどね、と思えてくるだろう。
🔃🔃🔃 水学って誰❔
3位.水学も乗物貸さん天川 延宝6年 芭蕉35歳
水学が、天の川を渡る乗り物を貸してくれるだろうとおおよその見当はつく。その水学がさっぱりわからない。
調べると、「水学」とは、水学宗甫 ( 生・没年不詳 )。承応二年(1653
年)の記録に、水学宗甫の名が出て来る。長崎の技術を学んだといわれる水利技術者。水を操る名人だから、牽牛・織女の逢瀬に支障が生じたら、水学が舟を出してくれるであろう、という意味。
この句の延宝6年は1678年だから、この句の詠まれた当時は、そこそこ有名人だったのだろう。芭蕉は江戸で、水利にかかわる監督官らしき職を生業にしていたこともあるから、水学の名が詠みこまれたのは、そのせいでもあるだろう。
🔄🔄🔄 しの字❔
2位.大比叡やしの字を引いて一霞 延宝5年 芭蕉34歳
この句は、名僧一休が比叡山延暦寺を訪ね、僧徒たちに ( わかりやすくて大きな字の書 ) を所望されたとき、 麓まで紙を長く継がせて、大きな筆で「し」の字を書いたという一休咄を言っている。書いている途中は、一本の棒のように見えて、最後にはねがあって「し」の字とわかるという落ちが効いている咄だ。
その咄を仕立て直して、横になびく霞もまた「し」の字と見たのだ。霞の尾っぽ部分は、跳ね上がっているという情景が見えて来る。
こういう句が詠まれ味わわれのは、この咄がよく知られていたということだ。私は全く知らなかった。一休の頓智話を広く普及させたという『一休咄』は元禄時代に出版されている。この句の延宝5年は1677年であるから、元禄時代以前だが、『一休咄』にまとめられる前に断片的な読み物が、すでに出ていたのだろう。
しかし、変な句ではある。芭蕉は、句にしなかったがこんな遊びを、心の内でひとり楽しんでいたのであろう。
🔀🔀🔀 ともかくも、何がならで❔
1位.ともかくもならでや雪の枯尾花 元禄4年 芭蕉48歳
元禄4年11月に芭蕉は、奥州旅立ち以来の江戸に戻った。念願を果たした祝いに次々訪れてくれる門人たちへの挨拶状のような句。
「ともかくもならで」は「ともかくもなる」の否定で、その「ともかくもなる」は、死ぬことの言い換え。現在では使わない表現だ。
否定だから野垂れ死にすることもなく、といったニュアンス。
枯尾花は、枯れた薄の穂。長い漂泊に一区切りをつけたものの、皆さんにはうち枯れた様子に映ることでしょうと、雪をかぶった薄の穂に、自分の姿を重ねた。
解説書に当たらなければ意がわからない芭蕉の句は、まだまだある。特に目についた十句を挙げてみた。
芭蕉の愉しみ方として、すぐに解説書に当たらず、自分なりに解釈してみて、解説書とのギャップに驚かれることをお勧めします。
令和5年5月 瀬戸風 凪
setokaze nagi