ワタクシ流☆絵解き館その262 明治生まれ世代の「海の幸」「わだつみのいろこの宮」評
青木繁の二大名作のうち、「海の幸」は、その絵柄の不可思議さと迫力とが現在なお絵の価値を更新し続けていることを、「わだつみのいろこの宮」は、1907年(明治40年)3月20日から7月31日の東京府勧業博覧会においては、情実による三等賞という入選末席の評価しかなかったが、まだまだ調べ尽くされていない青木の修養の末の集大成作であることを、「ワタクシ流☆絵解き館」の記事で何度も触れて来た。
では、東京府勧業博覧会では、鑑賞者にどんな感想を持たれたのか、またその後どのように好まれて、その思いが表現されて来たのかを併せて今回紹介する。発表時には低評価もあり、絵の斬新さを受け入れたかどうかで、評価を大きく分けたのが見て取れる。
⭐ 青木の絵を讃える著名詩人の詩
青木繁の絵画芸術を評価した著名人の顔ぶれを見るとき、小説の自作で触れて褒めた夏目漱石を別格として、蒲原有明、岩野泡鳴の両詩人を筆頭に、
与謝野鉄幹、与謝野晶子、安江不空、前田林外、坂本四方太 ( さかもとしほうだ ) 、河井酔茗、高島宇朗、木下杢太郎、児玉花外、野田宇太郎ら、明治生まれの第一線の歌人俳人詩人などの文学者に、未だ今日ほどの盛名なき時期から、青木を賞賛する者が相当数いるのは特筆すべきことだろう。
上に挙げた名以外で、小説家・詩人佐藤春夫を挙げると、やや意外な思いがするかもしれないが、佐藤春夫には青木繁について書いた詩がある。佐藤春夫が詩の題材に、特定の個人名を出す作例は珍しいと思う。彼は明治25生まれ。青木は明治15年生まれ。
この詩は、青木の遺作展等が話題になって、青木の名が広く知られてからの作である。
佐藤春夫を師と仰いだ1907年(明治40年)生まれの小説家、詩人井上靖にも詩集『遠征路』に「二つの絵」という詩があり、青木の「海の幸」に魅せられる思いが綴られている。ただしこの詩も、青木の名が高まって以降の作である。
「二つの絵」とは、青木の「海の幸」と、富岡鉄斎「梅華書屋図」である。
一読忘れられないいい詩だと思う。
🔻 何だかわからない絵だった「わだつみのいろこの宮」
次には、悪評の方に目を向けよう。
以下の文章は、東京府勧業博覧会評で、「わだつみのいろこの宮」について述べている。評者鈍栗翁は、深い教養のありそうな人ではない。面白半分にからかっている口調だ。しかし、発表された当時の、絵についての前知識もなく「わだつみのいろこの宮」を見た率直な感想として貴重だろう。
次の文章は、青木が昵懇の友人森田恒友を介して付き合いのあった画家、山本鼎 ( かなえ ) が、東京府勧業博覧会の展覧会場で耳にした鑑賞者の感想を自身の主催雑誌「方寸」に、雑録として書いているものである。
豊玉姫が日本の皇室の皇祖である ( とされている ) ことから、母君と表現している。むき出しの脚が醜いというのは、現代の人の感覚では驚くようなことだが、そう見えたのはやはり、女性の身嗜みに対する明治の世の感覚ゆえだろう。
「賤より出給ひしか」とつぶやいた思いは、青木の絵についての過去の記事で解釈してきたことの繰り返しになるが、貴人は豪華な幾重にも重ね着した衣装で描くのが、神話題材の絵の決まり事であったのだから、羅一枚しか纏わない豊玉姫が、いかにも貧寒とした装いに見えてしまう方が常識的だと言えるだろう。
「実にも」という最後の言葉には、青木を知る山本鼎にしてもなお、( さもあろう。青木のアバンギャルドの芸術性を、すぐに理解するのはむつかしいことだ ) という気持ちが、こぼれ出ているようだ。
✪ 激賞と傑作の烙印
ふたたび、高い評価を綴った文章に戻る。
青木繁の没後最初の遺作展が明治45年に開催された。それを見た感想を雑誌「新公論」に文泉子の筆名で、坂本四方太 ( さかもとしほうだ ) が書いている。坂本四方太は、1873 ( 明治6) 年-1917 ( 大正6 ) 年の俳人、文人。夏目漱石、正岡子規と交友があった人。「孑孑 ( ぼうふら ) は蚊になる紙魚 ( しみ ) は何になる」の句がよく知られる。
この一文は、漱石の青木賞賛に匹敵する激賞と言える。
小川信一は明治35年生まれの評論家。文中、挙げられている雅邦の竜虎が下の図版である。
橋本雅邦「龍虎図屏風」が昭和30年、青木繁「海の幸」が昭和42年に、ともに重要文化財に指定されているところからすれば、この評者は戦前昭和10年代において早くも、ピンポイントで絵の真価を言い当ててていることになろう。
令和6年4月 瀬戸風 凪
setokaze nagi