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俳句のいさらゐ ‹‹›◌‹‹› 松尾芭蕉『奥の細道』その三十五。「五月雨をあつめて早し最上川」

この俳句からは、大きな自然の中に、自分は包容されていると畏敬する芭蕉の思いが浮かび上がって来る。この俳句が、朽ちない輝きを持つ要素はそこにあるだろう。

「五月雨をあつめて」という措辞の働きである。「あつめて」とは、主体を天とした表現である。いったいに、五月雨によって水かさが増したという着想には類例がある。しかし、雨が降ったから川の水が増えたと結果を示すのではなく、「あつめて」と、自然の中に宿る神の営みを思い、そこに視点を置いたところが芭蕉の独創である。散文に言い換えれば俳句の意味はこうなるだろう。

みちのくの大いなる自然の地神の手は、五月雨を掬い取って、この最上川に
注ぎ入れている。それゆえに、川の水は脈々たる命をもって躍動し、私はその躍動のただ中に揉まれつつ地神の恩恵を感じ取り、旅人にはありがたい船下りの漂泊をしてゆくことだ。


五月雨、増した水かさの組み合わせの類想と述べたので、その例歌も示す。

五月雨はみかさぞまさる山川の後瀬白波たどるばかりに
                           後村上院

『新葉和歌集』より

芭蕉がこの船に乗るまでに、各地で出会った雨、あのときの難渋した雨が、今は僥倖となって、最上川の水かさを上げ、それゆえに驚くほどの速さで、また快適な涼しさをもたらして、船を進め、自分を運んでくれているのだと芭蕉は感じている。

前文にはこうある。
「最上川のらんと大石田と云所に日和を待つ」
「最上川はみちのくより出て、山形を水上とす」
山形を水上とすという水源地については、山形では地理的には矛盾することを、芭蕉あるいは曽良は知った上でのことだろうが、あたかも、みちのく全体が、この川の流れを生み出しているような文飾であり、演出表現であって、『奥の細道』の読者は、ひとつ前に書かれている立石寺の、深山幽谷の趣さえもが、最上川の水源であるかのような印象に導かれるだろう。

「五月雨をあつめて早し最上川」は、上に述べたように、まぎれもなく嘱目吟であり、誰かの俳句や和歌になぞらえているものではない。
しかし芭蕉が西行を深く慕っていたという一点から想像して、五月雨のために水かさが増しているという題材は、この歌から呼び起したのかもしれないと思う西行の歌がある。芭蕉の詩嚢に、イメージが焼き付けられていたように感じられる。それを示す。

水無瀬川をちのかよひぢ水みちて船わたりする五月雨の頃

西行 「山家集」より

水無瀬川は大河ではないが、歌枕として万葉集以来詠まれ続けて来た。西行の上の歌が示した感覚を、芭蕉は、大きな景観の中に移し替え踏襲している。

左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし

松尾芭蕉『奥の細道』より

芭蕉が俳句の前文で触れているいな船 ( 稲船 ) は、最上川の代名詞として歌の上で用いられるのを、芭蕉が脇に置いて愛読していたであろう『新葉和歌集』の中の一首に見出す。

最上川またいな舟の下る瀬をしばしばかりもいかでとどめむ 
                       春宮大夫師兼( 藤原 師兼 )

『新葉和歌集』より

上の歌は、同じく『新葉和歌集』中の、旅の心という題詠による中務卿宗良親王の歌
「老いの波また立ち別れいな船ののぼれば下る旅の苦しさ」
に唱和している。
つまり、「老いの波」に対して「しばしばかりもいかでとどめむ」( どのようにして老いてゆくことを止めることが出来ましょうか — 叶わぬ望みです ) という隠れた問答を含んでいる。

「左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし」と芭蕉が前文に書いたことから判断すれば、こういった古歌群があることを知った上であることを暗示していよう。
しかしさすがに、芭蕉が「五月雨をあつめて早し最上川」に、老いに向かうときの早さとか、ときを留め得ない無常観などの寓意まで取り込んでいるとは考えない。
悪く言えばそれらの歌が生み出している観念的な歌の情緒には傾かず、旅の中での実感を洗い出し、嘱目に徹していると言えるだろう。
その意味では、自分のみの俳諧の視点を強く押し出した一句なのである。

                                   令和6年9月           瀬戸風  凪
                                                                                              setokaze nagi


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