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俳句のいさらゐ ∴★∴ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十六。「卯の花をかざしに関の晴着かな」(曽良)「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」(曽良)


「卯の花をかざしに関の晴着かな」

この俳句で先ず思うのは、曽良自身がそうしているのではなく、芭蕉の様子を見て詠んだのではないかということだ。その理由を述べる。
これより前の日光で、曽良は
「剃捨て黒髪山に衣更」
と詠んでいる。つまり、『奥の細道』の曽良は僧形で、墨染の法衣をまとっているわけだ。剃り捨てているのだから、頭髪もない。
卯の花を折り取って頭にかざせば、墨染めの法衣も晴着になる、と曽良が自分の姿を写したと解釈すれば、自己を戯画化しているような諧謔味が先に立ってくる。そういう味わいは、この白河の章の文章にどうもそぐわない気がする。

芭蕉も曽良と同じく僧形ではあるだろう。しかし、私はこういう場面を想像する。
芭蕉が卯の花の一茎を手折りて笠の飾り物のように笠の上に置き、「青葉のなかの花の白が清らかだ、まことによい季節である」と曽良に語りかける。しみじみと関の情景を眺めている師の姿を見たときの曽良の感懐が、この俳句の主意であると感じられる。

この俳句の「かざし」の示す意味は、実際に、卯の花を頭に持ってゆく行為というよりは、手折った卯の花をしばらく掌に楽しみながら、卯の花を仰ぎ見てその下道をたどりゆくことの別の表現であり、師と私 ( 曽良 ) のこころは、卯の花の明るさによってハレ( 慶事 )の気分である、と言っているのだ。それが、「晴着かな」の示す本意だろう。
そう見るとき、上に述べた自己戯画化の色合いは消える。

やっと、白河の関まで来たことだ。幾多の古人が、ここで感じた旅愁を歌い継いできた気分とは異なり、わたしたちの関越えはずいぶん明るい気分だ、といったことを芭蕉は曽良に語るなどして、曽良は大いに共感したのかもしれない。
場面状況は違うが、晴着という詞から受ける印象から、その本歌取りとは言わないが、気分として万葉集中の名歌が思い浮かぶ。曽良の詩嚢には当然あった一首であろう。

春の苑紅 ( くれなゐ ) にほふ桃の花下照 ( したで ) る道に出 ( い ) で立つ娘子 ( をとめ )
                大伴家持( 巻19・四一三九 )

「萬葉集」より

別の見方から、曽良の俳句を語る。
『奥の細道』には、を題材にしている曽良の二句がある。
「剃捨て黒髪山に衣更」では、黒髪山の「黒」、「卯の花をかざしに関の晴着かな」では、隠し詞として白河の関の〈 白 〉という、対称にある色彩を暗に響かせてもいるだろう。
そして、『奥の細道』の平泉では、「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」の、曽良の俳句がある。場所を変え、曽良が再び目に止めた卯の花は、戦場に立つ兼房の老いを彷彿させる白髪の〈 白 〉に結び付いている。

「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」

白河の関での、墨染の衣にハレの気分を憑依させた「卯の花」が、平泉では、卯の花に老骨の武士の面影と気迫が乗り移っているものとして表現されている。そしてそれは、ハレの気分という点でつながっている。
なぜなら、義経を守り討ち死にした増尾兼房にとっては、主君の盾となっての討ち死にこそ、武士としてのハレの場面であると言えるからだ。
『奥の細道』後半にある、同じく討ち死にした武士斉藤実盛の兜を見て「むざんやな甲の下のきりぎりす」と芭蕉が詠んだ気分とは異なり、曽良の「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」は、卯の花に、哀切の情を見るという視点よりは、兼房という武士の魂の輝きを見、武士としての一身の終え方を賛美している印象を私は持つ。

一方芭蕉は、平泉では「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ。
哀切の情を強く出しているのは、こちらの俳句である。この俳句に言う「夢」とは、立身とか、華々しい武名とか、領地獲得とか、栄耀栄華を手にすることだ。その幻影がすべて儚く去り、今は何もなく、その余光を保ち続けている者もいないという諸行無常の思いが芭蕉の俳句の本意である。
それに対し、曽良は主従の間にある武士の生き方の哲学を感じ、それを美しいものとして詠んでいると思う。芭蕉の達観した諸行無常の人生観に対し、鎖に縛られたような主従の形式的で観念の美学である。あえて言なら、脱しがたい人の妄念ではあろうが、曽良はやはり武士出身の者として、兼房の情念に思いを及ばさずにはいられなかったのである。

芭蕉は、世にあるものすべては移ろう、ときが過ぎれば何も残らない、万事は無常である、と詠みつつ、その視点からは、並べて採ることが矛盾にも見えるような、主君を守り奮迅したであろう忠義の家来を、名挙げして詠んだ曽良の俳句を添えた。
芭蕉が、自分の俳句に、曽良の俳句を並べたのはそこに大きな意味がある。
平泉を訪れ、涙を落としてともに感激に咽んだ師と門人でも、それぞれに感じたところはこう違っていたよ、と芭蕉は示しているのだが、芭蕉もまた大いに曽良の思いに感じ入るものがあったと言えるだろう。

武士の出で、かつては伊賀上野の次代領主となるはずであった主君に仕え、青雲の志を抱きながら、それが主君の死によって挫かれた芭蕉の、その後の人生において持ち得た精神の変容 ( 脱俗 ) と、それでもなお残る心の芯奥の、武士が生きる上でのこころのありようを否定はしない精神とが、曽良の句を添えたことで透けて見えて来る。
一貫していない、と言うのではない。人生をとらえる価値観を、対立させて示すのではなく、素っ気ないような置き方で出しているのは、『奥の細道』の大きな特徴である。
読者が自在に感じ取るべきものという創作意識がそうさせているだろう。そして『奥の細道』は、武家の堅い絆の主従関係を美と感ずるこころを下に敷いた書きようが随所に目に止まる紀行である。

「卯の花をかざしに関の晴着かな」だけでなく、『奥の細道』の曽良のいくつもの俳句が、師、芭蕉の姿をとらえていると読める。例を挙げる。
 ▩「かさねとは八重撫子の名成べし」
は、芭蕉曽良両人が、同時に持ち、共感しあった感想である。この着想による俳句を、芭蕉は自分が詠むことなく、曽良が詠むようにさせたのであろう。
 ▩「松島や鶴に身をかれほととぎす」
は、先ず松島までは来たが、この先まだ見ぬ地をめざす師とわれ二人は、はるかに遠くゆく鶴のようであれとの自己𠮟咤だ。
 ▩「湯殿山銭ふむ道の泪かな」
は、山頂を極めてかそかな花に落涙しきりな師、芭蕉を見つめるやさしい目である。
 ▩「行ゝてたふれ伏とも萩の原」
は、かつて師に同行した鹿島詣での際に詠んだ芭蕉の俳句を下に敷いて、別れに当たり芭蕉が自分を気遣ってくれている感謝の念を示している。

「卯の花をかざしに関の晴着かな」は、白河の関を抜け、いよいよみちのくの念願の名所旧跡へと向かう昂る気持ちに、文字通り花を添えてくれている卯の花の輝きを嬉しく眺めている師のこころになり替わった、彼我同心の境地を表した俳句なのである。
その俳句を、『奥の細道』の中でも重要な、白河の関越えの章に採ってもらったわけだから、以前の私の記事でも言ったことだが、やはり曽良こそは、数いる門人のうち最も幸福な門人であると言い切ることができる。
曽良の身に関する、邪道とも見える詮索などは黙殺するのがよい。『奥の細道』の中で曽良は、俳人としての存在を極めている。

              令和6年10月         瀬戸風 凪
                                                                                           setokaze nagi





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