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俳句のいさらゐ ◧:◧ 芭蕉が『奥の細道』に載せなかった旅中吟②「入あひのかねもきこへずはるのくれ」

「曽良書留」にあり、『奥の細道』の前半部、室の八島を過ぎたあたりでの旅中吟とみなされている。室の八島を過ぎた日、三月二十九日 ( 旧暦 ) には鹿沼泊まり、と曽良の随行日記に記録されている。「光太寺」が宿泊した寺として伝えられているようだ。

当時、たそがれには鐘の音が響いてくるのが当然のことだったのに、それが聞けないといぶかしんだのか、それとも、歌に詠まれ続けて来た「入りあひのかね」の情緒を芭蕉は期待していたのに、それがなく、なおさらがっかりしていたのか。
「入りあひのかね」という詞から考えて、この俳句の下にあるのは、芭蕉が慕った宗祇法師の次の歌であろう。
「夕間暮れ遠山寺はそことしも見えぬ木ずゑに入りあひのかね」
                           宗祇法師

宗祇法師については、芭蕉は『笈の小文』に、「西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」と述べていて、第一人者として評価している。
また清少納言の「枕草子」には、「山近き入りあひのかねの聲ごとに、戀ふる心の數は知るらん」という一節があるが、和歌の措辞としての「入りあひのかね」の方が、芭蕉には親しかったであろう。

喜沢の街道風景 曾良随行日記では三月二十九日に通過

さて、芭蕉がこの旅中吟を外した理由だが、私はこう考えている。先ず、芭蕉俳句の特徴の一端が表れているものとして目に止まった、『奥の細道』より前の俳句を挙げる。

しのぶさへ枯て餅かふやどり哉  「野ざらし紀行」 天和四年 四十一歳
笠もなき我を時雨るゝかこは何と          天和四年 四十一歳
花皆枯れて哀をこぼす草の種            貞享二年 四十二歳

期待していた何かがない、何かが足りない、それゆえに募る寂しさを詠んだ俳句である。必然的に、色どりのあやは影をひそめる。
入あひのかねもきこへずはるのくれ
は、同じ俳意の句であろう。『奥の細道』を構成する上で、そういう趣の俳句は、配置する場所を選ばなければならないと芭蕉は考えたのだろうと思う。

それは、茫々とした寂情は、旅の終盤、つまり秋の眺めにこそ似つかわしいからである。『奥の細道』の秋季の俳句には、
あかあかと日は難面も秋の風
終宵秋風聞やうらの山       曽良
庭掃いて出ばや寺に散柳
寂しさや須磨にかちたる浜の秋
など、身を包みこむような寂情を詠んだ俳句が並ぶ。

『奥の細道』の行脚の中では、ゆく先々で、旅の愁い、日々流れてゆく身を思う寂しさがあったはずで、それは芭蕉のまぎれもない実感ではあるが、旅立ちの清新な気分に読者を誘う構成の上からは、旅立ってすぐのところで、もののあわれを述べている俳句「入あひのかねもきこへずはるのくれ」は外すのがよいと考えたのであろう。矢立の初としての俳句、
行春や鳥啼魚の目は泪
そのあとの室の八島での吟はなく、次の俳句は、
あらたうと青葉若葉の日の光
である。

日光東照宮偶景

明るい雰囲気に満ちた日光での吟を選んだのは、泪に暮れた首途のあとの、溌溂とした気分を強調したかったためであろう。

          令和6年10月              瀬戸風  凪
                                                                                  setokaze nagi

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