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祈りのうた② ー 悲しみ

失った道

満州からの引き揚げのさ中 
十二の歳で喪った母親との
数少ない思い出を母は折にふれ私に話した

家族で満州へ渡る直前のこと 
母親の実家で
― おかあちゃん ご飯にバッチイが入っとる
と 幼かった母は
出された黒い麦飯をいやがって箸をつけず
母親をいたたまれなくさせたという話だ
戦況はもう日本に勝ち目のないのは明らかになっていた

 ― 満州なんかへどうして行ったん?
その言葉が引揚者には棘であるとも思わず
深慮なく人が母にそう問うのを耳にしてきた
当時8歳だった母に両親が
満州へ渡ったわけを納得するように説くなどはあり得まい
その無情な問いは
誰よりも母自らが亡き母親の魂に
何度も繰り返した問いだったはずだ

― 若く死んだ母親の分も生きんといけんのよ
母はそう答えるばかりだった

麦飯をバッチイと拒んだ幼い日の記憶を
母が何度も語らずにおれない思いに
中年も過ぎる頃になって私は気づいた
引き揚げの無惨な状況の中で
娘には与え自らは餓えて果てた母親があって
自分は帰国できた申し訳なさと痛みとが
母の心の底に悲しく沈んだままだからだと

ある春の好日 
何十年ぶりかだと言う
親の実家を母と二人で訪ねた
大通りから畑がところどころに広がる道に入ると
母の視線が泳ぎ始めた
車を運転している私に道案内をしていた母が
不安な顔で私に聞く
― こんな所じゃなかったよね ここ?
車から降り
周囲をゆっくり見回していたが
ついに母は立ち往生した
母と私は途方に暮れた
連絡をつけどうにかたどり着けた実家では
― わからんかったん?あなたが昔住んだ処なのに…
と迎えてくれた母の叔母は首をかしげた

帰り道 母は涙をにじませた
― もう来るのは無理じゃね これが最後…
どこかに連れて来られた幼児のような表情で
帰り道の風景を眺めまわす母

やがて人格すら失わせてしまうであろう
むごい老いの病が母に静かに進んでいた

そうしてまたひとつ母の中から
遠くへと消え去って行ったのだ
母親の実家という優しい記憶の幻影までもが

◆ 作者寸言
この秋、母は向こう岸へと渡りました。詩に書いたその日のことを思うと、でもまだ、会話が出来ていたその日のことを思うと、涙がこぼれます。拭いても溢れて来ます。あの日、息子として悲しみを共有してしまったことが、棘として心に刺さっているのを感じます。

                                                 令和6年10月       瀬戸風  凪
                                                                                             setokaze nagi

 

 

 

 

 

 

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