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俳句のいさらゐ ■⇋■ 松尾芭蕉『奥の細道』その十五。「行ゝ(ゆきゆき)て たふれ伏すとも 萩の原」(曽良)

曽良は腹を病みて、伊勢の国、長島と云ふ所にゆかりあれば、先立ちて旅立行くに、
行ゝ(ゆきゆき)て たふれ伏すとも 萩の原  曽良
と書置きたり。

松尾芭蕉『奥の細道』より

この曽良の俳句で、おやと目に止まるのは、「萩の原」である。なぜ、倒れ伏すことがあろうとも、萩の花の野原をそこに思い描いているのか。

芭蕉と曽良の間には、この俳句の前振りのようなひとつの経歴がある。貞享四年のことだから、『奥の細道』の旅の二年前の秋、芭蕉  ( 44歳 ) は曽良と宗波 ( 禅僧 ) をともなって、『奥の細道』の旅の予行版であったかのように、常陸国鹿島に筑波山の名月を眺めんと出立した。結局雨にたたられて名月を見ることは叶わなかったが、のちに紀行 (『鹿島詣』) を残し、その中に、「野」の題で二人の連句を載せていて、そこに萩原が出ている。下に引用する。
 
 もゝひきや一花摺の萩ごろも  曽良
 はなの秋草に喰ひあく野馬哉  同
 萩原や一よはやどせ山の犬   桃青 ( 芭蕉 )
 
俳句の解釈は上から順に
 藤原実隆の和歌「初萩の一花ずりの旅心つゆ置きそむる宮城野の原」の本
 歌取りで、露の降りた原をゆけば、もも引きが、萩の花の色に染まるだろ
 う
 草で腹を満たした野の馬が、萩の花の風流など何知らず遊んでいる
 萩原は猪にでもやさしく寝床になるというから、狼 ( =山の犬 ) よ、一夜の
 宿りとするがよかろう
となる。

三句目の芭蕉の俳句「萩原や一 ( ひと ) よはやどせ山の犬」が、曽良の「たふれ伏すとも 萩の原」の伏線となってはいないだろうか。
芭蕉には伝わることだと確信して、曽良はこう言っているのだ。
 前の旅の鹿島に赴いた際の句会で、師 ( 芭蕉 ) は、獣に呼び掛けて、萩
 原を寝床とせよ、と詠まれたのでした。私も師と別れて、野を迷う犬のよ
 うなひとり旅を始めますが、もし行き倒れるとしても、きっと獣たちにと
 っての萩原のような、よい宿りの場所があることでしょう。だから心配し
 ないでください。
つまり「萩原」とは、この俳句では、二人の間の隠語のようなものであろう。

さらに深読みすると、上の解釈とはまた違った見方もできる。古歌に多く詠まれてきた萩のイメージが重なるように、曽良はこの言辞を用いているのではないか、という見方である。
その「萩」のイメージとは、古歌で詠まれてきた秋の「さを鹿」を連想させるものである。そして「さを鹿」とは繁殖期にある秋の鹿が、相手を求めて切ないように鳴く姿として使われる歌語である。下に引く歌が代表的な例。

さ雄鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも
           『万葉集』(2094)柿本朝臣人麻呂之歌集
我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿
           『万葉集』(1541)大伴旅人
秋萩の散りゆく見ればおほほしみ妻恋(つまごひ)すらしさを鹿鳴くも 
           『万葉集』(2150)作者未詳

つまり、曽良は、相聞にうたわれる秋の萩から、さを鹿をイメージで呼び起こさせ、そこに相手を求めて鳴く姿を浮かび上がらせようとしている。
この見方から、芭蕉との別離にあたっての、曽良の俳句の意を説けば、次のようになろう。
 私は伊勢長島へ行くため、由なき別れをここで告げなければなりません
 が、もしも倒れることがあっても、そこで私は萩の花散る中に鳴く鹿のよ
 うに、あなた ( 師 ― 芭蕉 )を思い続けています

そしてまた、秋萩は露を呼び起こす措辞でもある。露は涙の代名詞であるのは、隠喩の常套である。例歌を引く。
秋はぎの 花をば雨に濡らせども 君をばまして おしとこそおもへ 
                   紀貫之 『古今和歌集』
■ 歌意
秋萩の花は、惜しくも雨に濡れてしまいましたが、それよりさらに惜しく思うのは、あなた(兼平王)とお別れすることです。

さらに一首
うつろはむ ことだに惜しき秋萩に 折れぬばかりも 置ける露かな
                    伊勢 『和漢朗詠集』
■ 歌意
色褪せることすら惜しい秋萩に、枝も折れんばかりにたくさんの露が降りている。( 時は止めようもなく過ぎて色は褪せるのですが、露はさらに追い打ちをかけるように花を濡らしています ) 

「行ゝ(ゆきゆき)て たふれ伏すとも 萩の原」が、こういった相聞めいた衣装をまとった俳句と解釈すれば、恋情にも似た別離の情を抱いたのかと思われるかもしれない。しかし、そういうことを暗示すると言いたいのではない。

結論から言うと、『奥の細道』全文を見渡したとき曽良の俳句から見えてくるのは、たをやめぶりに艶めいている、という特徴である。それは、芭蕉の硬質な感触を持つ俳句との対照をなす役割で、『奥の細道』紀行をやわらかに彩る。例を挙げて語ろう。

白川の関での曽良の俳句。
卯の花をかざしに関の晴れ着かな  曽良
関を越えてゆく門出なのだから、卯の花を髪に挿し、これを晴れ着に見立てよう、という意味の俳句である。
これは、和歌でいう男歌女歌の区分で考えれば、女歌の情緒に通じている。『奥の細道』の俳文の方で、芭蕉が「卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする」と書いているから、これが補助線となって唐突な感じは受けないが、その詞書きがなく、曽良の俳句だけがただ置かれているとしたら、なよめかしい ( なよなよと、繊細な ) 感覚をもっと強く受ける筈だ。
これは芭蕉が打ちやすいように投じた球を、曽良が打ち返したということだろう。「ここでは、ぜひ卯の花を詠むべきだろう。これ以上格好の句趣は見当たらない」とでも芭蕉が曽良に示唆したのではないか。

次に、那須黒羽へ向かう途中での曽良の俳句。
かさねとは八重撫子の名成るべし   曽良
この俳句では、「撫子」に注目しよう。先ず古歌を引用する。

なでしこが花見るごとに 娘子 ( をとめ ) らが笑まひのにほひ 思ほゆるかも 
                  『万葉集』 (4114) 大伴家持

先ずこの俳句の前提として、家持の歌に見るように、撫子はおとめの代名詞として使われて来たことを踏まえる。
愛らしい俳句で、該博な文芸的教養がちりばめられている『奥の細道』の中では、息抜きのような場面描写に見える。
しかし私は、愛らしい少女に聞いた、かさねという名から、そのまま撫子を形容に引いたというのはやや違和感を覚える。かさね、とは七重八重の花びらの重なりということよりも、文芸においては、衣のかさね ( かさね着 ) であり、また衣を重ね合うこと、すなわち男女が共寝をする様子が、先ず連想されるのが常套ではないだろうか。この表現による和歌は、いくつも類歌を求め得るが三首ほど例歌を下に引く。

たなばたの天の羽衣うちかさね寝る夜涼しく秋風の吹く
                太宰大弐高遠「新古今和歌集」
夜をかさね待ちかね山の時鳥雲ゐのよそにひとこゑぞ聞く  
                周防内侍「新古今和歌集」
さらぬだにおもきがうへに小夜衣(さよごろも)わがつまならぬつまなかさねそ              寂然法師「新古今和歌集 」

馬に添って来た地元の少女である。この俳句の前文に「聞なれぬ名のやさしかりければ」とある。その「やさし」に、愛らしい以上の意味を持たせているのではないだろうか。
つまり、 ( ほう、こんな鄙で、雅趣のある名付けをしたものだ、おさなごの名としては色艶の香が匂う。遊び心の持ち主はいるものだ ) という思いをこめた前文のように思う。
芭蕉と曽良は、それを阿吽の呼吸で気づき、その場で会話して、曽良がこの俳句を即興で芭蕉に示したのだろう。二人のその思いのうちには、撫子は古名を「とこなつ」といい、『源氏物語』に出て来る、「撫子」と「とこなつ」の使い分けを示した次の歌があるのではないだろうか。こういう歌だ。

山がつの垣ほ荒るとも折々にあはれはかけよ撫子の露
■ 歌意
山がつの垣 ( やまが育ちの暗喩 ) は手つかずで荒れるとも、折りあるごとにあなたが撫でてかわいがってください、撫子は露に濡れそぼっています ( 泣き濡れていることの暗喩 )

返しの歌
咲きまじる色はいづれと分かねどもなほ常夏にしくものぞなき
■ 歌意
混じって咲きほころびていれば、美しさはどの花が勝るかは決めかねるのですが、床で撫づとの名を持つとこなつの花、つまりそういう仲であるあなたー 大和撫子こそが、私にとってはただ一つの花なのですよ。

『奥の細道』の芭蕉の俳句に通底する特徴を、簡潔に言い切ることは出来ないが、主眼は嘱目にあり、その場に立ったからこそ見えている情景、ひりひりと胸に迫って来る感動を、大づかみな視点でうたっていると言えるだろう。
その大きさから反転して、雅なことがらを想像させ、伝統的な教養もにじませた小さな俳句を緩衝材として置いた。それが曽良の俳句であろう。曽良はあなたの俳句も紀行中載せるために採りたいと、芭蕉から予め告げられていて、芭蕉がこの紀行の味わいをどこに求めようとしているのか、実際に師に問いながらの旅であったと思う。

重ねて言うが、曽良の俳句も、芭蕉が詠んだもの、という奇説には私は断固与しない。それは俳諧に心を寄せ合う者の間に生ずる美しい心根を理解できない人の言である。芭蕉は、門人であるなしにかかわらず、自分の俳句を、人の名でもって作者となすような、いわば押し付けの屈辱を与えるような誠実さのない、無礼な人ではない。
曽良はあくまでこの旅の秘書役であり、黙々と師に添って歩き、芭蕉はただ自分の俳諧の新境地を生み出すことに沈潜していた、という様子ではなかったと思う。つねに芭蕉は、同じものを見ている曽良の視点を問うたに違いない。

ゆく先々で、ここではどんな対象を俳諧としてを詠むべきかを師弟二人で、口に出しながら考えていたと思うのだ。芭蕉が、それだ、と思う俳句を曽良が詠んだとき、それをぜひ採ろうとなったのだと思う。もちろん厳選である。曽良もゆく先々で日々の旅程を組み変え、つねに先を予想する気の休まらない務めを果たしつつ、俳諧においても師の期待に沿うべく、旅の眺めを食い入るように見つめて歩いていたであろう。

                                                      令和6年6月                        瀬戸風 凪
                                                                                                       setokaze nagi







 


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