俳句のいさらゐ ◪☆◩ 松尾芭蕉『奥の細道』その三十二。「田一枚植て立ち去る柳かな」
この俳句の要点は、ひとことで言えば余情である。次に向けて歩み始め、振り返った一瞬の名残り消えやらぬ思いである。
『奥の細道』の中で、この遊行柳の前の、日光東照宮での「あらたうと」と壮麗さに感嘆した俳句や、「滝に籠るや」と、寸時の仏道修行のような言いぶりをして、雅趣を強調した裏見の滝の俳句に比べてみると、ことを述べ、そこにある事象を述べたにすぎないとも言える。
心の内を表には詠まず、前文に対しての答を示して、俳句の真意は読者に投げかけた俳句というべきかもしれない。
先ず「田一枚植て」を考えよう。
これは、農夫たちが、厳密に一枚の田を植えてそれでその場を離れて行った、という情景とは思えない。
田植え作業は続いているのだが、田の一枚を植えるほどの時間を、傍目に見つつそこに佇んでいたということであろう。つまりあえて散文で言えば、「田一枚植て」 ( しまうほど時間眺めたのち ) となる。
「立ち去る」は、この俳句を詠んでいる芭蕉の立ち位置を示す。つまり、もう遊行柳のそばからは動いている。畦道を引き返しているのだ。
これは当然西行上人の歌の、この柳影に「立ち止まりつれ」を意識した反歌的な表現だ。
「柳かな」は、西行上人が歌を詠んだ思いに、まさにその現地において、自分の感覚を重ねる時間を持ったという満ち足りた感慨と、一期一会の切なさが混じり合った旅愁を映し出している。
旅行者の目を奪う名所にあらずとも、そこにあこがれてやって来たゆえに、立ち去るときの、ゆくときを惜しむ情は誰もが味わうことだ。
あえて前文では、戸部某が「此柳みせばや」の勧めるのでといった、読者に見透かさせるような理由付けをした、そっけない物言いをして、その分俳句にこめた思いを読者に想像させていると読める。
俳句では、立ち去りがたいとはどこにも行っていないが、「立ち去る」と、前文にいう目的を充分な時間をさいて遂げたことを告げながら、切り返して「柳かな」と、何の装飾もなく切れ字で止めた表現に、何度も振り返っているのを想像させるような、余情尽きない思いを現わしている。
この「柳かな」に、透けて見える情に通う古歌がある。次の歌だ。
今日ばかりの花とは思わないときでさえも、花のそばからは立ち去りがたい思いがするものだ、という亭子院の歌の意が、芭蕉の俳句においては、一期一会の出会い ( 遊行柳を尋ねるなどという機会は再びはない ) なれば、いやまして思いが深いと、返歌のように生かされている。
芭蕉の次のような祈りもまた、この俳句の裏にある。
■ 畦道を戻る目には、水の張られていた田に玉苗が植わって、緑のかす
かなそよぎを見せている。なびく柳が、ゆくときを惜しむ私の心を映す
ようだ。
西行上人の時代は、500年も昔のことだが、連綿と稲作が繰り返され、
その歳月を、柳は田の面に影をなびかせ続けて来た。
どうかこの柳がいつまでもこの地に、この農の営みの中に、上人の歌と
ともにありつづけてくれよ。
令和6年8月 瀬戸風 凪
setokaze nagi