俳句のいさらゐ ◉↹◉ 松尾芭蕉『奥の細道』その十四。「波こえぬ契ありてやみさごの巣」(曽良)
曽良のこの俳句を、『奥の細道』象潟の段の掉尾に置いた意味を考えていて、第一句である芭蕉の吟「象潟や雨に西施がねぶの花」に響かせていることに気づいた。
その「象潟や 雨に西施が ねぶの花」の方から見よう。
俳句に詠まれている西施とはこういう女性だ。越王・句践( こうせん )が、実力で及ばない敵、呉王・夫差( ふさ )の力を削ぐため、絶世の美女を贈り、その色香の虜にして政治を疎かにさせ、臣下との軋轢 ( あつれき ) を生じさせる策を企てた。
その企 ( たくら ) みは成功し、呉王・夫差( ふさ )は美女に耽溺して、呉は国が傾いた。よって傾国の美女と称されるのが、そのとき選ばれた西施である。その説話が広く知られていた西施の色香を、芭蕉は、象潟の雨にけぶるねむの花の風光の喩えとしたのである。
それを念頭に置きつつ、曽良の「波こえぬ契ありてやみさごの巣」を見ると、こちらは、みさごの巣に、平穏な仲睦まじい夫婦を連想させている。
みさごは、当時の文化人たちの基本的な教養書であった『詩経』の第一篇「関雎」( かんしょ ) に、「雎鳩 ( しょきゅう ) 」と表現され、雌雄仲のよい水鳥として出て来る。ゆえに、みさごと喩えれば、仲よき夫婦という連想をするのが、ことの決まりであるという。
また、「波こえぬ契」の意味するのは、『古今集』/東歌に
君をおきて あだし心を我が持たば 末の松山波も越えなむ( よみ人知らず )
■歌意
大きな波も決して越せない《末の松山》、その松山を波が越すなど考えられないのと同じく、あなたを思う私の心も不動なのです。
とあるのを下に敷いている措辞と、芭蕉本の解説書にはある。
つまり、見せかけの、裏のある、虚飾の色恋を、「西施」に暗示し、ねんごろな、琴瑟相和した、心打ち解けた夫婦の交わりを「みさごの巣」に暗示したと言えるだろう。つまりこの構成は、対照を意図している。歴史上の美人の故事を出し、また花鳥に附せられている和やかな寓意を使って、どちらの喩えでも相応しい象潟の風光描写に、深みを与えているわけだ。
曽良の俳句は、実は芭蕉の作、という作家嵐山光三郎さんの奇説もあるが、私はそうは思わない。
思わないが、曽良が師の創作意図を充分に咀嚼したようなこの構成を見ると、『奥の細道』の実際の道中においてすでに、いずれ書く俳文紀行を意識して、象潟の印象はどういう視点で表現するか、二人の俳句をどう関連付けて配置するかを、芭蕉の方から曽良に持ちかけていた気配を感じる。それゆえに対応した俳句になっているのではないかと思う。
これはまだ考察していないが、象潟以外のところでも、該当するかもしれない見方という気がしている。
さらに気づいたのは、「汐越や鶴脛濡れて海涼し」の芭蕉の俳句は、汐越と名のついた浜に鶴がいて、その脛が海の水に濡れていかにも涼しそうだ、という情景を詠んでいるが、潮がひたひたと洗う汐越に、上に記述したように、「波こえぬ契ありてやみさごの巣」の裏にある、大きな波も決して越せない《末の松山》を対比させているのも見えて来る。
脛( はぎ )を潮で濡らし孤影を落としている鶴と、波が越えることのない巌頭に巣を営むみさごの姿の対比が、重ねて、両極の愛の形を暗示してはいないだろうか。
また、西施伝説には、彼女が川で足を洗っている姿に見とれて、魚たちが泳ぐのを忘れたという噺がある。この場面もまた、脛濡れた鶴の姿に重なっているように思われる。
令和6年6月 瀬戸風 凪
setokaze nagi