ちょんまげぷりん
タイトルのインパクトの強さたるや。ひらがな表記というのもインパクトを加速させていながら、なんだか気の抜けてしまうような感じが出ている。
映画化される前に読んでいたはず。残念ながら原作を知っている状態で映像作品に感動したことは無いので映画は見ていない。
タイムスリップものの作品は沢山あるが、多くは現代人が過去へ飛ばされるというものではなかろうか。
ちょんまげぷりんは過去の人が突如現代へと来てしまう。男女の役割が明確だった時代から、男女共同参画社会の現代へとタイムスリップ。
やってきたちょんまげ頭の侍は現代文化を受け入れられない。しかし武士魂として、ただ世話になるわけにいかぬ、と家事をするようになる。
あれよあれよと腕を上げていき、とあるきっかけで一躍有名人に。
それまで世話になっていた親子との絆を中心とした物語。
この国にこの時代に生まれ育ち、この文化しか知らずに作り上げた固定概念はどうすれば崩れるのだろう。
海外に出ても「海外だからなぁ」と思ってしまわないだろうか。それはある意味受け入れているようで、あくまでも自分の価値観は揺らいでいない。
それが時代が違う日本だったら?「時代だからなぁ」で済ませられるだろうか?
私たちは過去を歴史として学んでいるから、どんな時代風景があったのかを予習している。タイムスリップしても「あぁ、あれね」となれる可能性もある。
これが未来に飛ばされてしまうと厄介だ。「ここは日本です」と言われて納得出来る風景が保たれていればいいが、ドラえもんのような未来世界になっていたら「ここ、どこやねん」が止まらないと思う。
そもそも言葉は通じるのだろうか。
そう思うと作中のお侍さんはすごい。
自分の強さゆえに自信があったのかもしれないが、見たことの無いスピードで走り回る鉄の箱、けたたましい音を鳴らしているさらに大きな鉄の箱。それらが移動手段とすらわからない中で、1人で彷徨える精神とは。
そして拾われた親子宅で現代文化を教えられ、理解し、受け入れ、適応した。
自分が考えている当たり前を覆される状況というのは何も時代も国も変わらずとも日常であるものだ。突然納期を早められる依頼、仕上げの段階での大幅な変更、それまで起きたことの無いエラー、受けたことの無いオーダー、訳の分からないクレーム……。
変化の激しく、個性を認められた現代ではもはや昨日と今日とでは時代が違うことすらあるのかもしれない。
お侍さんの生き残りにはダーウィンも頷いたはずだ。我々も変化への対応を身につけたいところだ。