名のないシシャ
私が児童文学の類を脱するきっかけは山田悠介さんだった気がする。
「鬼ごっこ」と馴染み深い遊びの名前がタイトルにつけられたそれは後に映画化までされるヒット作。そんなことは知らず、文庫版で平積みされたそれを家庭内月間図書として母に強請った。
当時ドラゴンだかのシリーズを読んでいたのに突然止めるどころか、到底小学生向けではないものを欲しがるから母に確認されたのを覚えている。
突飛な設定、小学校低学年にはまだ少し難しい文字も表現もあったはずなのに、文体のリズムの良さからかどハマり。彼の作品を追い続けた。
山田作品は、残虐な環境に理不尽に放り込まれた主人公というストーリーが多いと思う。
抗えないのは共通しているのに、ハッピーエンドになる時もあれば、人間の恐ろしさを突きつけられる時もある。
名のないシシャは、また新しかった。
シシャとして時計台に現れたという子どもの姿の主人公と同じ境遇の仲間。彼らは食事も睡眠も必要のない不老不死の存在。そして、人間たちの死ぬまでの秒数が見える。人間に自分の持ち時間を分け与えることで、人間は寿命が伸び、シシャの持ち時間は0になると消える。
目の前の人間があと数時間で死ぬとわかっていても、その人が本当に分け与えるに相応しい人間なのか?
私は生まれた瞬間から死ぬまで、全てのイベントが決定していると思って生きている。
一念発起、決意して、今までの自分とは全く違う方向に進むことすら、予め決まっていると思っている。誰が決めてるとかは知らんけど。
シシャは言うなればそれを歪ませられる存在。
もしそんな存在がいたとしたら、分け与えて欲しいと思いますか?
それは、自分に?それとも近しい誰かに?はたまた、見ず知らずの挙式できなかった花嫁?
それ、叶えてもらって、でももしこの先もっともっと救ってほしくなる存在が現れたら?
寿命を延ばしてとお願いしたシシャが自分の身を削っていると知っても運命を変えて欲しい?
私は自分を含め、自信を持ってこの人と思い浮かぶ人はいない。手垢のつきまくった言い回しだけど、終わりがあるから命は美しいと思うから。人との別れが惜しいと思えるのは永遠がないことを知っているから。
片手で数えられるような年数ぽっち、お別れを先延ばしにされるくらいなら、来るべき運命に身を委ねたい。
イベントが決定しているのみではなく、その時最適なことが起きていると信じている。
だから、悲しいけど、辛いけど、目を背けたくもなるけど、私の人生においてその人とのお別れはその時がベストだと思いたい。思えるように接していたい。
延ばした数年、数週間のうちに嫌いになってしまったり、したくない。惜しいと思える時のお別れが綺麗だから。
では、もう1つ。シシャとして生まれたら、どんな人に時間を分け与える?与えずに永遠に生きる?
私はなんだかんだグズグズ悩んで小出しに分け与えてはズルズル生きちゃうかも。
ゴソッとまとめて1人に渡せてしまう人生も素敵よね。
こうして書いていると、人としての愛情みたいなことかも。私は周りのみーんな好き、でも悪く言えば誰かが特別にはなかなかならない。
逆に他がどうでもよくなるくらい1人にのめり込む人もいて。
どっちがいいとか、悪いとかじゃないのよ。
物語のベースがこの世界であるなら、私がやりきらなかったことは残った誰かが回してくれる。私の想いも乗せて、繋いでくれるから。私には私の出来ることで、私の渡せる何かを分け与えていこうと思う。