脱能力主義とWell-being
能力とは、非常にあいまいで概念である。
この結論に至ったのはつい最近のこと。
それは以下の本を読んでそうだよね。と頷きながら読んでいた。
休職前に、「ケーキの切れない非行少年たち」や「無理ゲー」社会を読んでいて、社会の求める基準値というものが高くなるにつれて、そこから零れ落ちる一定の人が、確率的に発生してしまう。というのが、事実として存在することを改めて認識したような気がした。
休職中に通っていたリワークの中で、発達障害に該当する人が年々増えていっているが、上記のような社会の求める基準値が高くなり、それまでは「特性」であったものが、社会生活として支障をきたすようになり、「障害」として成立してしまう。というような話も聞いた。
そんな中で、スポーツや音楽などの専門的な世界においては、ある一定の先天的要素を認めるのに、こと勉強やビジネスについては、「みんなやればできる」ということになっているのかが不思議でたまらなかった。
先日に以下の動画を見て、普段少し募っていたものが久々に沸き上がった。
休職過程において、「デキる大人=目指すべきビジネスパーソン」そんな考えがこびりついて、インスタグラムのタイムラインを追うように、上司、先輩、同期、後輩の成果を見ては、自分には能力が足りないな。。。と思い、挙句の果てに、その集合体「デキる大人」を作り上げていたと今では振り替えられる。
それこそ事態が成長を阻む、一番の足枷になっているとも知らず。
スキルを身に着ける、新しい思考を取り入れる、成果が上がらない。その無間地獄の果てで、「自分は能力が無いからだ」という結論にたどり着く。
これ以上の絶望は無い。自分がまるで今後生きていくのに不適切であるかのような烙印。藻掻け、まだ足りないと言われても意味が分からない。だって、あなたたちには「能力」があるじゃないか。と。
今年3月に復職してから、その前の1年半は休職をしていた。うつ病。仕事が主原因ではないが、プライベートでのごたごたがあり、上記の思考も相まって最後の膝カックンのように効いて、崩れたような気がする。
休職して、徐々に回復し、思考ができるようになり、リワークでの環境もあり、潜在的に世の中にそう考える人、そういった状況に陥っている人がいるのではないかと思った。
物事にたいして直球にコミットしすぎて「能力」というものを追い求め続けて、疲弊している人。本来向き合いたいこと、興味がそそること、そつなくこなせることから目をそらして、ただひたすらに足りない「能力」を追い求めること。
そう考えると自分の今後を考えたときに、この動画で言うところで言う「物語」を作るにはどうしたらいいだろうかと考えると、自分の立ち位置が変わって捉えられるようになった気がする。
まずは、会社でそんな風にくすぶっている人の手助けができないだろうか。という目標を抱えている。
まったく会社の事業とは関係のないこと。でも、間接的にその人の仕事、会社の仕事が円滑に続くのであれば、真正面に向き合う必要なんてないんじゃないかと。
そんな思考に至ったのが、今の自分。今後も変わるんでしょうけどね。
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