バブル時代のうつ病
おはようございます。本日も何を投稿しようか悩んだ時、またふと”うつになった時”の事を書こうと思いました。本当に近しい人にしか話していないのですが、noteには書いてもいいと思うのは、集っている方の雰囲気でしょうか?後は貴重な体験ではあったので、備忘録としても残します。
バブル絶頂期の社会人
年齢がばれますが、社会人なりたての頃にバブルを迎えました。正直、給料面ではさほど恩恵を受けていなかったのですが、とにかく”お金がなくても大丈夫!”という謎の雰囲気が漂い、若いこともあり何も怖いものはありませんでした。お金が今なくなっても、明日も仕事があって生きられるという、そんな毎日でした。だからお金を使う事にも躊躇がありませんでした。
とにかく仕事は忙しかったです(;´д`)ゞ。デザイン会社に勤めていたこともあり、終電が当たり前で徹夜も何度もしました。今では信じられない働き方です。デザインの仕事は好きで、徹夜でも全然嫌ではありませんでした。プラス時間が出来ればディスコ(古い…)( ̄ ‘i  ̄;)に行って踊ったりしていました。
異変を感じたのは、先輩が会社を辞めるとなった時です。”こんなに忙しいのにいなくなったら、全部私がやるのか…?”と恐ろしくなりました。結果、辞めてしまい、まだ慣れない打ち合わせや校正作業などもしなくてはならなくなり、今と違って働く女の人に全然やさしくない社会でした。「女、子供寄越しやがって」とか「こんな事も出来ないの?」とか何度か目の前で泣きそうになるのを堪え、その後泣きながら道をぐるぐる回って泣き止むのをまったりと、そんな生活を続けていた時、終電の電車の中で”ぴきっ”と音がして後頭部が急に痛くなりました。すぐに治ると思っていたのに、何日も続き痛みが増してきました。(結果は緊張性頭痛です)
自律神経がおかしくなる
だんだんと無口になり”この痛みは頭の中に何かできたのでは?”不安がどんどん広がりました。いわゆる病気に対する不安症です。忙しくて病院にも行けず、行くにも怖い‥。とズルズル伸ばして次に喉の調子が悪くなり、なにかいつも詰まっている感じで本当に話さなくなりました。さらに右手が震えて字が書けなくなり(実際は書けるのですが、書けない気がする)、さらに左足がしびれてちゃんと歩けない(これも実際は歩けています、歩けていない気がする)と色々な症状がどんどん出てきました。
休日は布団からでなくなり、一日中寝ていました。
上司に病院へ行くよう言われ、重い体を引きづって国立病院の脳神経科へ行きました。レントゲンを撮ってもどこにも異常はなく「精神安定剤だそうか?」と言われました。今は普通にとらえる事が出来ますが、当時は精神安定剤=精神病だと思う風潮がありました。これにショックを受けて”私は精神病なのか?”と傷つきました。どこにも異常がないなら安心できるのが普通ですが、精神が病んでいる時は妄想が正解だと思ってしまうのです。
心療内科へ
仕事だけは這ってでも行きました。実際いっても仕事をしていたかの記憶はありません。行っていたのは”一度でも休むと、きっと私は一生外へ出れなくなる”という直感のような怖さからです。いつかどこかで倒れるのではないかと思いながらも出社だけしました。
今のようにインターネットはないので、新聞や雑誌、駅広告などで心療内科を探しました。今のように診療所も少なくひっそりと夜だけなど診察をしていました。それだけ知れると差別がおこるからです。やっと見つけて診察をうけました。「ノイローゼです。」と言われました。今、ノイローゼなんて使わないですよね。そして大量の睡眠薬と精神安定剤を出されました。
ここからまた、辛い日々が始まりました。薬依存症になりました。カウンセリングなどという事は一切なくただただ薬だけ。副作用もきつく朝のだるさはほんとうにしんどかったです。それでも薬があれば大丈夫なんだ!とう間違った意識を植えてしまい。そこから抜け出せなくなりました。薬が無いと何もできなくなり、常に持ち歩き必ず服用しました。
ですが、何も症状はかわらず自己肯定がどんどん下がり、どうしようもなくなりました。
漢方に救われる
辛くてもどこかで”これでは取り返しがつかなくなる”と思っていたので、また調べました。大きな漢方薬局がありそこに自律神経失調症・うつにも効果あると張り紙があり、勇気を出して相談しました。少し年上の優しい女性が薬剤師の方で本当にラッキーでした。話しやすく、誰にも言えなかった事を全て話せました。
「今の薬をすこしづつ漢方に切り替えましょう。」と調合をしてもらい、とにかく体調を整える事を優先に指導してもらいました。
薬と漢方を飲みつつ、すこしづつ割合を逆転させていきました。1年半位たったころでしょうか?
ある日突然”薬、捨てよう!”と全てゴミ箱に入れました。
なぜそう思ったのか不思議ですが、体調が整ったのかもしれません。
二週間に一度処方してもらいに通ったのですが、通うたびに丁寧に話を聞いてもらい、これがカウンセリングになって良くなってきたのだと思います。もしかしたら漢方もいらなかったのかもしれません。それくらい薬剤師さんを信頼して話せるのが嬉しかったです。
こうして約2年間漢方を飲み、話をして完治といかなくても気にならなくなることが増えていきました。この期間何冊もの本を読みました。何故自分がそうなったのか、どうしてこうなるのか?がわからないと腑に落ちず、治らないのです。その中で一番腑に落ちた本は「ストレス善玉論」中沢 正夫さんが書かれた本です。調べたら今でも発売されていました。ストレスという言葉さえしらない新人社会人でした。
治る方法は人それぞれだと思いますが、私は自分が納得する事だと思いました。納得しないと次々と別の原因を探ってどんどん深みにはまります。どうやって納得するかがポイントでした。
本にかかれていたと思うのですが、一度経験すると最後まで共存しないといけない。その自覚もあります。気質がそうなのでそうなると思います。パンドラの箱はあいてしまったので。
まとめ
この経験は本当に辛く苦しかったです。ただ、人にやさしくなれたと思います。その後も色々な症状が現れてきてまた、辛くなりますが、すぐ納得は出来る様になりました。そして自分のレッドラインぎりぎりもなんとなくわかるようになったので、そのかなり手前で調整を心がけています。
やっかいなのは、レッドラインがわからなくなる事があり、その状態で超えてしまうと体になんらかの症状が出ます。
共存は受け入れているので、上手く付き合うようにしていかないとですが、
今は閉鎖された感じで精神的な負担はとらえられていないので、誰かに話す事が本当に重要です。しづらい人がなりやすいので、ちょっと難しいかもしれませんが、どこにも吐き出さないのは危険です。病院でもカウンセラーでもよいので、”おかしいな”と感じたら、誰かに話してしまいましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
どなたかのお役に立てます様に。