白か黒かだけで世界を塗りつぶさないで
はじめに
今の世の中のなんとも言えない心地悪さに日々を圧迫され小波(さざなみ)状態になった私は、逃避するように書店へ向かいました。何の本を読もうか迷っていると、千葉雅也さんの「現代思想入門」が目に入り、手にとっていました。特に選んだ理由はありません。目次を読んだら、なんか面白そうだった、それくらいの理由です。
直感で選んだ本なのですがこれがまあ面白く、一瞬で読み終わってしまいました。他の本も読んでみたいと思い、最近出版された「センスの哲学」をすぐに買いに行き、研究の間に読み始めるとこれもまあ面白くて、やることそっちのけで、またもや一瞬で最後のページまでたどり着いていました。そして今もこの記事をいそいそと書いています。
哲学や思想、芸術そのものには全く触れてこなかった私ですが、芸術や科学、思想や政治をある意味で仲介する建築をバックグラウンドとしています。(今はもっぱら都市計画ですが)
建築史や都市史は大好きでそこでモダニズムやポストモダンなど建築関係の芸術や思想史には少し触れてきました。
(青井哲人さんの「ヨコとタテの建築論」という分野や場所・思想を横断/縦断する本をしっかり読んだおかげでこれらの2冊を楽しく読めたというのはあるかもしれません。建築をやっている人にはぜひとも勧めたい本です。)
話を戻すと、建築や都市計画には厳密に数値化できるような科学分野ではないので、設計をするときや論文を書くときにいつもその曖昧性に苦しめられています。白と黒のつかなさに学問としての厳密性への疑問や、自分の中の責任感の位置づけにくさを常々感じていました。
先の2冊を読んでいると、そういったことも含め、今までの自分の経験がぱっ、ぱっ、ぱっとフラッシュバックしながら繋がっていくような、さわやかな感覚や、そのとき持っていた日常への違和感や分からなさ、曖昧さへの居心地悪さが解きほぐされるような気がして、心地よさを感じました。
その経験を振り返りながら、主に曖昧であるということについての考え方を自分の中でみたいとおもいます。
小波とノイジーな炭酸
以前の記事の中で、自分の心のとある状態を「小波(さざなみ)」と名付けたことがあります。(小波とは、自分の心の中が小さなきっかけから大きな不安へと増幅していく過程の初期状態を名付けてみたものです。)
この波立っている状態が、「現代思想入門」の中でデリダやレヴィナスの言う(ことを千葉さんが解釈する)ところの「他者」に重なりました。
誰かの言葉や、突然舞い込んでくるタスク、自分ではどうしようもない出来事という小波のきっかけは、いつも「他者」の存在から生まれてくるからです。
この一文が詩的で素敵だと思うと同時に、「小波」は脱構築の手前の二項対立の部分で生まれた表現なのだと気が付きました。
というのも、自分の心の中がどこかそわそわしていたり、不安定で波立っている状態をマイナスと決めつけていたからです。心が凪の水面の状態を求めている自分がいました。そんな中で凪と波立ちの二項の谷間から救い上げたものが炭酸の泡立ちと表現されていました。
この脱構築という考え方の魅力に引き付けられ、この表現が素敵だと思うと同時に、「音楽的な魅力」という言葉だけがどうにも素直に腹落ちできていませんでした。これが分かったらもっとこの一文が素敵に思えるのになと少し残念にも思っていました。
ものごとをリズムとして捉えること、それがセンスである
センスの哲学を読むことで、この音楽的な魅力というものが少しだけ分かったような気がします。本文から少し引用してみます。
リズムという視点で餃子と音楽を並列に語ることに驚きを感じつつも、リズムのまとまりで世界を捉えるということに納得感も覚えました。
と同時に、普段のハプニングや悩み、どうも言葉にしにくい出来事もそこにリズムを生み出しているモノに思えてきます。
私たちの人生が魅力的なのは、グラスの中の炭酸が"しゅわしゅわ"と泡立つように、普段の日常の中に突然のハプニングというジャズみたいなリズムや、クラシックのように穏やかなリズムが並存したり交互に存在するのが理由かもしれません。
出来事は良し悪しではなくリズムなのです。
良いリズムは時を超えて語り継がれる
日本の古典として現代として伝わった一つに古今和歌集があります。1000年も前の和歌が現代まで語り継がれてきたというのは不思議なものです。
けれども紀貫之が書いた仮名序を読むと、昔から「センス」のような感覚があったこと、自然や心のゆらぎのなかにあるリズムにかつての人は敏感だったことが伝わってきます。
風に揺られる木々が万葉の掠れ合う、予測できない不規則で多重なリズムを持つように、人の心の機微を言の葉で構成しなおした「やまとうた」もまた、不思議な心地よさのリズムを持ち合わせているということを紀貫之は知っていたのかもしれません。
古今和歌集が今まで語り継がれているのはまさに、その自然の中や私たちの心の中にある音楽的なセミラティスのリズムに目を向けながら、丁寧に31文字のリズムに再構築したからだと思います。だからこそ今まで色褪せずに伝わっているのだと思います。
私が自然を美しいと思うのは、世界にセンスが存在していると実感できるのは1と0の間の揺らぎやリズム、そしてその1と0の多層性を感じられる感性を持ち合わせているからだと思います。この感覚は1000年単位で引き継がれてきた素敵な感覚ではないでしょうか?
あいまいであることのどうしようもない魅力
建築という形で色々なものを構想していく中で、とある人には評価され、同じものなのに違う人には全く評価されない経験をしてきました。都市計画の分野を考えれば考えるほど一言で言い表せる正解がない途方もなさに、くじけそうになることがあります。建築に限らず、「つくる」という経験をしてきた人は、この不安定な揺らぎの状態への共通の認識があると思います。
また実際に街に出て色々な人の考え方に触れたり、建築や都市計画を取り巻く様々な現場を間近で見せていただくほどに、白か黒かで言い表せる、YesかNoかで断言できることは本当にごくわずかだと痛感します。
でもその、自分を表現したり定常に保つことの難しさや、世界の白黒のつかなさが、ある意味で私たちの暮らしの中に魅力を作ってくれているようにも思います。それがおもしろさでもあると思うのです。
0か1,YesかNo,白か黒の世界
けれども今の世の中は0⇔1,Yes⇔No,白⇔黒であふれかえっているし、人々は分かりやすさを求めすぎてしまっているように思います。
例を挙げるとするならば、ある人は再開発のビルを醜悪で見たくないものだと言い切ります。特に小規模な建築をやっている建築家の方や、大学の研究者の方は再開発を断罪したりします。一方で、作るんだったらその街にとっていいものを、愛される建築を作るんだというポリシーで再開発に向き合われている方にもたくさんお会いしてきました。YesとNoで対立してしまっています。
今の神宮の再開発もまさにそのような文脈の中の混沌にあります。その状態に対して、批判が渦巻いています。
最近の市井では「YesかNoかで答えてください。答えられないんですか!?」という文言で相手に強く迫る様子をよく目にします。ネット上のインフルエンサーがよく言っていたり、昨今の選挙の討論の文脈でもそのような議論が多数見られました。
勿論そこには、いいことや悪いこと、誰かにとっての利益や不利益があることは否定できません。不利益を被る方への思いやリスペクトの不在はあってはなりません。けれどもだからと言ってそれが1つの事象を2項対立の中で良し悪しを言い表せるとはとても思えません。
そのようにYes,Noを突き付けることに私は美しいリズムを見出せません。
どうか、世界を白か黒かの二面で見ないで。
どうか、そこの間にある豊かな色彩に目をこらして。
そこに生まれている美しいリズムに耳をすまして。
そんな風に自分は願っているのだと気が付きました。
二項対立は私たちの思考の宿命なのかもしれない
白と黒だけの世界。1か0だけで世界が構成されていると思うなら、揺らぎが許容されないなら、世界から美しい色彩や音楽、豊かな言葉たちはあっという間に消えてしまいます。
にもかかわらず、絶対的な真理のない、いわゆる神様が死んでしまった現代の日常の中でも私たちは1か0かで物事を考えてしまいがちです。
神様の代わりに台頭し、近代科学が生み出した0と1で生み出されるバーチャルな世界と、そこで日々言い合われる白か黒かの議論が続いている様子を見ていると、どうも私たちはその世界線から逃れられないのかもしれません。
あいまいであるという事に勇気を持つ
曖昧であるということを許容する勇気をもつこと、そのあいまいさの中に生まれる多様な泡立ちのリズムに耳を澄ましながら音を味わうように暮らすことができたなら、私たちはもう少し世界を踊るように感じながら、世界そのものを餃子みたいに味わい尽くせるのになあと思います。
曖昧であるという事は芸術性の分からなさやその揺らぎのように、ある意味でセンスが問われるようなつらい状況でもあります。けれどもその状況の中で心地よいリズムを世界に生み出せるように、勇気をもって日々もがいてみようと思います。
「現代思想入門」「センスの哲学」とても勇気がもらえる2冊でした。
参考にさせていただいた書籍