なんてことない愛おしい秋の日
肌寒い季節が大好物の人間にとって、すばらしい朝だ。
むわんっと吹いては停滞していた風も、いつのまにか すぅっと吹いている。これもあっという間に、ひゅーっに変わるから、すんっとした空気にすぅっと吹く風を思う存分味わっておきたい。
今日は、いつもより少し早く家を出て、最寄り駅から反対方向へと歩く。今日は、だいすきな場所でモーニングコーヒーを飲む日。もう3日前からそうしたいって決めていた。
あのコーヒーの香りを想像しながら、すぅっと吹く程良い冷たさの風を全身に浴びて歩く。なんて気持ちの良い朝だろう。人は、その先に楽しみが待っていると思うと足取りが軽くなる。
おはようございま〜す と、朝の挨拶を交わす。ここは、いつ何時も全力自分で訪れてもいい場所。言うなれば、ここがわたしのサードプレイス。わたしが全力自分でいられる空間は意外と少ない。大抵の場合、ちょっと自分を抑えたり逆にギアを上げたりしちゃうから。
3日前からうきうき楽しみにしていたモーニングコーヒー。すぅーっと嗅いだ香りに、脳が喜んでいる。香ばしさと果実感がふわーっと広がる。
やって来るお客さんは、当たり前だけどそれぞれ違う生活があって。コーヒーを飲み終えて一歩この場所を出れば、それぞれの1日を進めていく。それでも、ここでコーヒーを飲んでいる時間を確かに共有している。
もう何度かお見かけしたことのある人もいれば、初めて顔を合わせる人も。はじめましてと何度目ましてが交ざり合う。それが毎度異なるハーモニーを織りなして、今日も唯一無二の空間が造られる。
こんな素敵な場所が、時間が、地球上にもっとたくさん増えればいいなぁ、なんて想像してみる。値段も点数もつけられない大好きな朝。いつしかこの幸福感をまるっと言葉にできたらいいなと思うけれど、こういう気持ちは言葉で形どれないのかもしれない。
胸もお腹も満たされて、帰り道。冷たい風の中に、ふわっと印象強く香るのは、金木犀。
この香りには抗えなくて、どうも身体が引き寄せられる。すんっと香りを嗅ぎながら、ちいさなちいさな花々を見つめる。秋の風は、金木犀の香りを運ぶために吹くのかも。
小学生のころ、初めて嗅いだこの香りに衝撃を受けた。ひとりでは受け止めきれなくて、朝のスピーチ時間にクラスメイトの前で発表したような記憶もある。
電車に揺られて辿り着いたオフィスでは、おはようございまーす と、敢えて少し気の抜けた挨拶を繰り返して席に向かう。今日もやわらかくいこうという意志を込めて。
まだ半袖の人ともう長袖の人。朝夕は冷え込むけれど、お昼間はまだ暖かい日が多い。今年は特に、季節と季節の間にいる日々が長いような気がする。
今ここに書き出そうとすると、一体何で笑ったのか思い出せないような、それくらいの笑いが1日に何度かオフィスで生まれる。
そういうささやかなものを積み重ねて、今の関係性が出来ている。焦るでないぞ と、2年前の自分に伝えてあげたい。
躍進はしなかったけれど、一歩進んだ。まだ正解とは言えないけれど、何かを掴んだ。そんな感覚があった今日のお仕事。こちらも積み重ねだなぁと思う。
日暮れがすっかり早くなった。朝のそれとはまた少し異なるすぅーっと吹く風は、わたしを少し早歩きにさせる。
きらんっと浮かび始めた星と、行き交う車のライトに目を細めながら帰路につく。
夜ご飯、茹でたおうどんに七味をかけるつもりが、間違えてシナモンをかけて驚愕した。金木犀よりも強力な香りが湯気にのって鼻を刺激する。
自分の粗相に驚きながらも、こんなことも誰かに話せばネタになるかな、なんて考えながらあわててシナモンをすくい出す。神経を研ぎ澄ませて、なんとかシナモンうどんにはならなかった。
ドラマにするにはあまりに退屈で、映画にするならどこで挿入歌を流せばいいのか分からない。そんな、なんてことない1日。
それでも、見つめ直せばあまりに愛おしくて、書き出してみると名シーンだらけの1日にも思える。
なんてことない1日の中に在るものを、噛みしめたり、抱きしめたり、掬いあげたりして。今日もまた、特別な1日を生きたわたしがいます。