「ぼく」と「僕」、つまり「アンディ・ウォーホル」と「僕」 ——落石八月月訳『ぼくの哲学』を読んで
アンディ・ウォーホルはこんなふうに、当時の自分を振り返って書いている。僕は、自分の人生をウォーホルの人生になぞらえてみるなら、今はそういう時点に当たるのだと思う。
もちろん、僕の人生とウォーホルの人生はまるで別物だし、僕が生きている現在とウォーホルが過ごした青春とを較べてみれば、言うまでもなく、背景も異なる。しかし、通ずるところもたくさんあるだろう、と思うのだ。
僕も、ウォーホルも、人間だ。そして僕とウォーホルの両者が相対しているのも、人間だ。
どれだけ人工知能が一般的なものになって、人間がそれを利用して新たな文化を構築しようとも、人間は人間と関わり続けることをやめられない。
僕とウォーホルを並べて語ることに、なんとなくの気恥ずかしさというか、畏れの多さを僕は感じている。
しかし、ウォーホルもまた、彼の本のなかでは「ぼく」という一人称を使用して自分の人生を物語化している。
僕が今やっているのも同じことだ。僕は「僕」という一人称を使用して自分の人生を物語にしている。
物語は通じあう。一方の宗教における神話と、もう一方の宗教における神話が、奥底で通じあうように、物語は通じあうものなのだ。
だから、僕は、僕という存在も、ウォーホルという存在も、あらゆるものを引き受けて物語を書いている。
「われわれ」であるとか、「わたしたち」であるとか、そういう言葉(一人称複数)を気安く使用するな、という意見がある。あなたの身勝手な主張にわたしの許可もなしにわたしを含めないで、というわけである。しかし、それは、いささかおかしい。
僕は、あなたのすべてを知っているわけではない。僕は、僕が目にして、僕の想像が及ぶ限りのあなたのことしか考えることができない。僕は、あなた自体を書くことはできない。同様に、僕は、僕自身を書くことはできない。ゆえに、すべての物語は小説である。フィクションである。僕は、エッセーを書くことと小説を書くことを区別していない。
僕は、アンディ・ウォーホルに会ったことがない。けれど、僕は、アンディ・ウォーホルに会ったことがある。物語はそんなふうにして始まる。
リアリストの眼には、僕が嘘つきで気狂いであるかのように映るかもしれない。僕はある意味気が狂っているのかもしれない。しかし、ポスト・トゥルース。物語は真実になるということはあらためて証明されて、僕たちはそれを目の当たりにし、驚愕したじゃないか。たった2年前の話だ。